富田勲先生とのお別れの会−横田さん、小池さん、そしてJALの仲間

富田勲先生とのお別れ会が青山葬儀所で行われ、駆けつけた。

20数年にわたり、あの大吟醸のようなふくよかな人柄に接してこれたのは実に幸せなことだった。

富田勲「渡り鳥が危険をおかしてまで海を渡るように、
   『やらねばならぬ』ことは人それぞれにある。
    私の場合それが『音楽』だったのです。」(喪主の富田勝さんの挨拶から)

羽鳥さんが撮った写真をいただいた。宝物にしたい。
富田先生を友人に持ったことの幸運を感じている。


久しぶりに、神田和泉屋の店主・横田さんと一緒になり、富田先生を偲ぶ。
800名ほどの参列者の全員が、心から富田先生の死を悼んでいるという、雰囲気だった。

富田先生の娘の妹尾さんにご挨拶。

終わった後、秩父の「こいけそば」の小池さんとJALの仲間達と喫茶で歓談。

秩父のそばの会は9月25日になった。
富田先生を偲び、小池さんの日本一のそばをと大吟醸を愉しむ会になるだろう。
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「名言との対話」6月15日。今西錦司

  • 「君たちがいる。そしてわしがいるではないか。われわれにやれなくて、だれがやるのだ。」
    • 今西錦司(1902-1992年)は、私の師匠の梅棹忠夫先生の、その師匠である。「長い一生のあいだなにをしてきた、そしてなにをのこしてゆくのか」と今西は自問し、「終始一貫して、私は自然とはなにかという問題を、問いかえしてきたように思われる」と述べている。科学があつかいうる現象は氷山の一角である。氷山全体を論ずる立場が自然学であった。そして今西は「今西自然学」を確立する。柳田民俗学、梅棹人類学と同様の偉大な学問体系の創立者であった。
    • 今西錦司という名前は、京都学派の棟梁として燦然と輝いていた。がしかし、今西は遅咲だった。従来の学問の枠にはまらずに研究をしたため、不遇の時代が長かったのだ。「万年講師」と言われるほど、講師時代が長かった。しかも無給だった。57歳でようやく京大人文研の社会人類学研究部門の教授に就任する。定年は63歳だから教授在任期間はわずか7年に過ぎない。定年後は岡山大に移るが、65歳で岐阜大学の学長に推され、6年の任期を全うする。
    • 自然学の業績の素晴らしさで、文化勲章をもらうのだが、、私は「山岳学」を打ちたてようとした今西の山行の記録が目に留まった。62歳で400に達していたが、いつか達成しようと夢見ていた「日本五百山」を66歳で達成。岐阜大学学長を退官した71歳の時に、日本山岳会会長に就任し、山行のペースがあがり、「日本千山」を達成するのが76歳である。10年で500山を踏破している。77歳で文化勲章を受賞。その後も山行は続く。そしてとうとう「日本千五百山」を83歳で達成する。この間7年だった。その後は、数を数えずに楽しみの登山に変え、85歳の山行を最後とした。
    • 90歳で老衰で大往生したときの葬儀委員長の吉良竜夫は、「先生に接すると、新しいことに挑戦しようという意欲をかきたてられる。その存在だけで影響を与えることができる稀有の人だった」と述べている。影響を与える人が偉い人だという私の定義によれば、次代の梅棹忠夫川喜田二郎などのそうそうたる高い山脈をつくったこの人はの偉さは格別である。
    • 「自分の目でみて、自分の頭で考えよ。」
    • 「 陰謀を持ち大目標を秘めて生きてゆく人生のいかに生きがいあるかを、私は身をもって経験してきた。」
    • 冒頭の言葉は、巡ってきた大興安嶺探検を決定した時のものである。このリーダーの言葉で梅棹、川喜田などの探検部のメンバーが奮い立った。このとき、この探検の成功が約束されたのである。