ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の31回「今西錦司」編をリリース

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の31回目は、「今西錦司」編。

https://youtu.be/dc2QitkhvIM

(79) 遅咲き偉人伝31 今西 錦司 - YouTube

今西錦司「君たちがいる。そしてわしがいるではないか。われわれにやれなくて、だれがやるのだ 」

今西錦司(1902-1992年)は、私の師匠の梅棹忠夫先生の、その師匠である。「長い一生のあいだなにをしてきた、そしてなにをのこしてゆくのか」と今西は自問し、「終始一貫して、私は自然とはなにかという問題を、問いかえしてきたように思われる」と述べている。科学があつかいうる現象は氷山の一角である。氷山全体を論ずる立場が自然学であった。そして今西は「今西自然学」を確立する。柳田民俗学、梅棹人類学と同様の偉大な学問体系の創立者であった。

今西錦司という名前は、京都学派の棟梁として燦然と輝いていた。がしかし、今西は遅咲だった。従来の学問の枠にはまらずに研究をしたため、不遇の時代が長かったのだ。「万年講師」と言われるほど、講師時代が長かった。しかも無給だった。57歳でようやく京大人文研の社会人類学研究部門の教授に就任する。定年は63歳だから教授在任期間はわずか7年に過ぎない。定年後は岡山大に移るが、65歳で岐阜大学の学長に推され、6年の任期を全うする。

自然学の業績の素晴らしさで、文化勲章をもらうのだが、、私は「山岳学」を打ちたてようとした今西の山行の記録が目に留まった。62歳で400に達していたが、いつか達成しようと夢見ていた「日本五百山」を66歳で達成。岐阜大学学長を退官した71歳の時に、日本山岳会会長に就任し、山行のペースがあがり、「日本千山」を達成するのが76歳である。10年で500山を踏破している。77歳で文化勲章を受賞。その後も山行は続く。そしてとうとう「日本千五百山」を83歳で達成する。この間7年だった。その後は、数を数えずに楽しみの登山に変え、85歳の山行を最後とした。

90歳で老衰で大往生したときの葬儀委員長の吉良竜夫は、「先生に接すると、新しいことに挑戦しようという意欲をかきたてられる。その存在だけで影響を与えることができる稀有の人だった」と述べている。影響を与える人が偉い人だという私の定義によれば、次代の梅棹忠夫川喜田二郎などのそうそうたる高い山脈をつくったこの人はの偉さは格別である。

「自分の目でみて、自分の頭で考えよ。」

「 陰謀を持ち大目標を秘めて生きてゆく人生のいかに生きがいあるかを、私は身をもって経験してきた。」

冒頭の言葉は、巡ってきた大興安嶺探検を決定した時のものである。このリーダーの言葉で梅棹、川喜田などの探検部のメンバーが奮い立った。このとき、この探検の成功が約束されたのである。

過去の番組。(79) 遅咲偉人伝 - YouTube

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夜は「深呼吸寄席」に参加。

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参加した人:京都。糸島。八王子。岡山。東京。軽井沢。

テーマ:里塾。最終講義。縁。身体性。地域交流。人物記念館。

「おもしろいこと、やってる人がオモシロイ」(橘川)

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「名言との対話」3月31日。武田麟太郎筆を休ませなかった。作家とい云うものは、結局、書くことによってのみ自分を揚棄させて行けるものではないかと思う」

武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年(明治37年)5月9日 - 1946年(昭和21年)3月31日)は、日本の小説家。享年41。

三高卒業後、帝大文学部仏文科に入学。セツルメントに参加して労働組合運動にかかわり、中退する。反戦小説「暴力」などでプロレタリア作家として出発し文壇の地位を築いた。プロレタリア文学への弾圧を経て、傾倒した井原西鶴の作風に学んだ庶民の生活感情を描いた「日本三文オペラ」など、庶民風俗の中にリアリズムを表現する「市井事もの」とよばれる風俗小説を発表し、独自の境地を築いた。武田が「文学の神」と崇めていたのは、徳田秋声だった。

「私は、小説家になろう、と思った、----十七歳の正月である」。そして才能があるかどうか迷いながら小説家になるのだが、小説家を「好きな場所」という作品で次のように定義している。  「四方八方、よかれあしかれ、誤解の糸に引っ張られて、その危なっかしい均衡のうちにやっと立っているのが、小説や小説家だろう」。

 兄貴分として慕っていた9歳年下の織田作之助は、「不死身の麟太郎」と言われていた武田の若すぎる死を、次のように悼んでいる。作之助の『婦善哉』を推したのが鱗太郎だった。

宇野浩二――川端康成――武田麟太郎、この大阪の系統を辿って行くと、名人芸という言葉が泛ぶ」。「終戦後、武田さんの新しいスタイルはまだ出ていなかった。しかし、私は新しいスタイルの出現を信じていた。名人芸を打ち破って溢れ出るスタイルを待望していた」。「死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか」。そしてこの追悼文を書いたわずか1年足らずで「織田作」も死んでしまう。

「いつも前作を否定したいと云うほどの熱心さは忘れなかった」。 「筆を休ませなかった。作家とい云うものは、結局、書くことによってのみ自分を揚棄させて行けるものではないかと思う」。その結果、1930年から1947年までの17年間に40冊の単行本が出ている。そして新聞雑誌に書いた小説も多く、評論・随筆も多い。膨大な仕事量をこなす人だった。

武田麟太郎の人生訓は 「天才がその機能を発揮するまでには、社会や人生が彼の上に堆積される必要があるのだ。そこに年齢が作用する」であった。42歳というあまりにも若い年齢の死だった。天才を発揮するには時間が足りなかったようだ。「織田作」が惜しんだように、時間が、寿命があったら、どのような仕事を残しただろうか。