伊藤左千夫--千葉県山武市歴史民俗資料館。

伊藤左千夫--千葉県山武市歴史民俗資料館。

「牛飼いが歌読む時に世の中のあたらしき歌おほひに起る」

「久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし」

九十九里の波の遠鳴り日の光り青葉の村を一人来にけり」

歌にかかわる論争で軍門に降った4歳年下の正岡子規に師事。左千夫は絶対的人格の持ち主として子規を尊敬していた。

子規没後は、根岸短歌会歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となり、島木赤彦、斉藤茂吉土屋文明、寒川陽光などを育成した。また、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」をホトトギスに発表し、高い評価を受けた。

短歌・長歌新体詩・俳句・写生文・小説・歌論・俳論・随筆・評論・宗教論・茶論などさまざまな分野の多様な文学作品を残している。

その伊藤左千夫のふるさと・成東町山武市歴史民俗資料館を訪ねた。

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1階は左千夫を看取った甥のかおるが、親せきにあった左千夫の多くの借財を整理し、直筆原稿、作品をすべて持ち帰り、蔵に保存したものを展示している。

2階は伊藤左千夫の人生と業績を展示している。

伊藤左千夫1864年上総国に四男として誕生。かつては旗本の知行地であり、学問の中心地でもあった。

当時は地元住民の負担であり、学費も高かった小学校に通う。このときの恩師・佐瀬春圃は漢字、漢詩、和歌、俳句に精通して降り、左千夫は影響を受けて、漢籍十八史略史記、春秋左伝などを学んだ。

展示資料によると、明治6年に20歳男子の徴兵制がひかれ3年の兵役が課されたが、免除規定があった。官吏、所管学校の学生、洋行予定者、戸主と相続人、代人料270円納入者とある。

政界を希望した左千夫は18歳の時、明治法律学校に入学するが、眼病により勉学を断念し帰郷する。3年8ヶ月を郷里で過ごす。

その後、徒歩で出奔。東京市内と神奈川の牧場で4年間働く。神田、神奈川、市ヶ谷、九段。

27歳で独立し牛乳搾取業を経営する。乳牛改良社である。

「万が一我が社の牛乳が他の牛乳に劣っているようなことがあれば、我が社は乳牛代金を一切いただかないことを誓います」との広告もある。いかにも左千夫らしい発想である。

毎日18時間労働し、同業者第一の勤勉家といわれた。この事業で生計を支え、文学に打ち込んだのだ。

子規の死後、積極的な性格と年長者でもあった左千夫は短歌雑誌「馬酔木」を発行する。4年弱の期間通算32冊を世に送った。終刊後「阿羅羅木」を刊行し、歌壇ではアララギ時代を迎える。晩年には茂吉・赤彦と対立することになる。時代の歩みに遅れたのだ。

「夜光る珠は人知る土焼の楽の尊さ世は知らずけり」

子規の写生短歌から写実短歌へと発展していく。

また虚子のすすめもあり、「野菊の墓」を書いた。この小説は何度も映画化されている。小説は30編をものしている。

大正2年、50歳、脳溢血で死去。

「おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く」

 

「副学長日誌・志塾の風」170314

  • 高野課長

「名言のとの対話」3月14日。島津斉彬「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、くじけずに研究せよ」

    • 島津斉彬(1809年〜1858年は)江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。西洋事情に明るく進取の気性に富み、大規模な藩政改革を実施。集成館を興し、反射炉、ガラス工場、洋式紡績所などを設置。西洋式軍艦・昇平丸を幕府に献上した。将軍後継問題では一橋派に属し、井伊直弼と対立。享年50歳。
    • 40歳を過ぎても部屋住みであったが、密貿易のデータを幕閣に渡すという非常手段に訴えて藩主のポストを奪取。「勇断なき人は事を為すこと能はず」と言った斉彬は、卒兵上京を控えて洋式兵法の訓練中、父・斉興の密命で毒殺される。藩主となってわずか10年であった。
    • 斉彬は洋物への異常な好奇心と研究心があり、ダゲール法の写真機をオランダから買い、自分の娘を撮影した。これが日本人の手になる最初の写真であった。
    • 斉彬は無名の青年を重用ポストに登用した。その青年が後の西郷隆盛である。
    • 冒頭の言葉は薩摩藩反射炉建設にあたって言ったとされる言葉である。人ができたことは、自分たちにできないはずはない。こういって部下を激励し、そこで培った勢力が明治維新を断行した。「君主は愛憎で人を判断してはならない」とも言ったのだが、そのため薩摩藩は多くの人材を維新と明治時代に供給できたのである。