色川大吉の肉声を聞く。テーマは「民衆史と自分史」。

今日も暑かった。今週後半から少し涼しくなるという。「暑さ寒さも彼岸まで」は本当だな。

昭和史:色川大吉の肉声を聞く。テーマは「民衆史と自分史」だった。読んだ色川の本をあげてみる。

たゆまざる人・平野友輔--「明治人その青春群像」(色川大吉)。たゆまざる人・平野友輔--「明治人その青春群像」(色川大吉) - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」 (hatenablog.com)

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2023年2月23日。「ある昭和史」再読。

色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を再読した。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかる。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。

  • 庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
  • その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
  • 人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
  • 個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
  • 黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
  • 地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)

私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。

今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、そこを意識していこう。

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2023年9月8日。色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読。

ある一人の明治の常民の一生を追いながら、明治の可能性を追った力作だ。神保町の古本屋で手に入れた本だ。

明治人には精神的な骨格と変革期の焦燥がある。それを体現した無数の宝の一人が北村透谷と同年生まれの恋敵・平野友輔だ。立身出世型ではない、在村活動家型の人間像の一人の地方知識人である。平野の生涯は「一篇の優しい長い詩」であると歴史家である色川大吉は「追記」で総括している。こういう明治人が全国に無数にいた。それが明治国家を築いたのだ。

平野友輔(1857年生)は町医者、政治家、郷土(三多摩)の指導者として生涯を送った。この本では、無名の主人公・平野を軸に交錯した有名、無名の明治人が登場する。

石坂昌孝(自由民権)。北村透谷(婚約者・美那子と結婚)。福沢諭吉(言論人)。森鴎外(東大医学部)。坪内逍遥(一級上の落第生)。北村透谷。広瀬淡窓(愛吟)。奥宮健之(陽明学)。矢島楫子婦人矯風会)。徳富蘇峰(平民主義)。内村鑑三キリスト者)。二宮尊徳(東洋道徳)。ベルツ(医師)。平野藤子(妻・看護婦。100歳)。海老名弾正(同志社総長)。明治天皇(大帝)。石川啄木(詩人)。有島武郎(文学者)。

平野友輔をあらわす言葉を拾ってみよう。ーーー正義感。民権家。東洋思想。首尾一貫した生活態度。たゆまざる人。ナショナリズム。愚痴を言わない明治の人。質素。勤勉家・自己制御と人格鍛錬。教養と克己。聖書と論語。和魂洋才。墓はいらない。享年72。湘南地方人格の第一人者。

平野友輔は、東洋の思想と西洋の文化を体現した、明治の知識人の一つの典型だ。こういう人たちが全国にいたことが近代日本の幸運だった。

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「名言との対話」9月19日。正岡子規「こは長きも二十行を限りとし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし」

正岡 子規(1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人歌人国語学研究家。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

17歳で東大予備門に入る。ここでは、夏目漱石南方熊楠、山田美妙らと同級となる。21歳で鎌倉で喀血、このころベースボールに熱中する。そういえば上野の森には子規記念球場があったことを思い出した。22歳で漱石との交遊が始まる。23歳で文科大学哲学学科入学。25歳日本新聞社入社、27歳「小日本」編集責任者、28歳日清戦争従軍記者。このとき、従軍中の森鴎外を訪問、松山の漱石の下宿で50日を過ごす。29歳子規庵で句会、カリエスの手術。33歳「日本」に「叙事文」を連載し、写生文を提唱。34歳「墨汁一滴」の連載を開始、35歳「病状六尺」を連載、そして死去。短く不幸な生涯であるが、同時代の人々への感化、その間になした仕事は大きな影響を後世に与え続けているのが素晴らしい。子規は必死に生きようとしたのだった。

わずか36年の短い生涯の中で、俳句と短歌の革新を成し遂げた偉人、ベースボールの導入者、そして人が自然に寄ってくる魅力を備えた人物、それが正岡子規だ。

「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない」

子規という号は、結核という病を得て赤い血を吐く自分を、時鳥(ホトトギス)が血を吐くまで鳴いて自分のことを知らしめるように、自分の血を吐くがごとく何かをあらわそうと決意し、その別名をつけたものだ。また漱石という号は、唐代の「晋書」にある「漱石沈流」に因んだものだ。石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す、という意味で、負け惜しみの強い変わり者を意味している。もともと、百ほどの号を持っていた子規が使っていた号だが、漱石に譲っている。「漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)」

「墨汁一滴」には、食べ物の薀蓄、歌に関する知識、人物胆、俳句、万葉集賛歌、闘病の苦しさ、少年時代の思い出、漱石のこと、試験の話など、優れた批評精神と好奇心のおもむくまま豊かな精神生活を感じさせる文章が並んでる。テーマ、スタイルなどが多彩にひろがっていて、子規の世界を堪能させてくれる。随筆に現われる子規は実に魅力的だ。現代のブロガーは子規に学びたい。

 

以上は2006年に書いた文章である。子規については、それ以前も以後も本を読み、施設を訪問している。それを追加で記したい。

イギリスから帰国した同年生まれの親友・夏目漱石は2年後に、子規の創刊した「ホトトギス」に最初の小説『吾輩は猫である』を発表し、翌年には『坊ちゃん』、『草枕』を発表した。子規がいなければ、文豪漱石も誕生してはいなかっただろう。

2016年に子規庵を訪問。子規庵は総坪数55坪、建坪24坪の一軒家である。南向きの庭があり、子規の天地であったこの庭には子規の愛した様々な木や花が咲いている。座敷として使っていた8畳間から病間としていた奥の6畳間が続き、その6畳間のガラス戸の先は、糸瓜(へちま)棚になっている。このガラス戸は、陽がさし、外が見えるという当時としては珍しいもので、高浜虚子が子規のためフランスから輸入したものである。子規は肺結核だったのだが、この菌が脊髄に入りカリエスという難病になる。

子規の座机が6畳間にある。子規の左脚は曲がったままで伸びなかったので、立て膝を入れる部分がくり抜かれていた。代表作の一つである「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を見ることができる。この庵に子規は、母八重と妹律と住んだ。八重は83歳まで、律は73歳までこの家で住んだ。この3人の墓は田端にあって、子規の左右に母と妹が並んでいる。

根岸は、上野の山の根っこにあり川に近かったことからついた名前である。根岸は当時の高級別荘地でおめかけさんが多く住んでおり、子規は「妻よりもめかけが多し 夕涼み」という句も残している。上野の山は水はけがよく、鶯(うぐいす)が鳴声を競い合ったところでもあり、鶯谷とも呼ばれていた。根岸に近い根津には遊郭があってそのあとに寄席ができて、子規はよく通ったらしい。親友であった漱石と子規は寄席で出会ってそれがきっかけで仲良くなった。

庭に出て草花を愛でてその先に、子規文庫という土蔵があった。昭和2年正倉院方式でつくったもので、戦災を免れている。

考えてみれば子規は寝たきりであったにもかかわらず、食べたいものを食べる生活をしている。これはおじさんの加藤琢という人物のお陰である。加藤は外交官や貴族院議員を歴任している。この加藤が「日本」の社主であった「くが褐南」と友人だったこともあってこの新聞社に採用される。給料は15円から30円、そして子規があこがれていた40円までになっている。40円は学士の月給だったそうだ。この加藤の息子の加藤忠三郎は後に妹律の養子に入る。この経緯を司馬遼太郎は、ひとびとの跫『』という小説に書いている。

子規の年表をたどってみると、17歳で東大予備門に入る。ここでは、夏目漱石南方熊楠、山田美妙らと同級となる。21歳で鎌倉で喀血、このころベースボールに熱中する。そういえば上野の森には子規記念球場があったことを思い出した。22歳で漱石との交遊が始まる。23歳で文科大学哲学学科入学。25歳日本新聞社入社、27歳「小日本」編集責任者、28歳日清戦争従軍記者。このとき、従軍中の森鴎外を訪問、松山の漱石の下宿で50日を過ごす。29歳子規庵で句会、カリエスの手術。33歳「日本」に「叙事文」を連載し、写生文を提唱。34歳「墨汁一滴」の連載を開始、35歳「病状六尺」を連載、そして死去。短く不幸な生涯であるが、同時代の人々への感化、その間になした仕事は大きな影響を後世に与え続けているのが素晴らしい。子規は必死に生きようとしたのだった。

帰宅後、子規庵で購入してきた『墨汁一滴』を読んでみる。食べ物の薀蓄、歌に関する知識、人物胆、俳句、万葉集賛歌、闘病の苦しさ、少年時代の思い出、漱石のこと、試験の話など、優れた批評精神と好奇心のおもむくまま豊かな精神生活を感じさせる文章が並んでる。テーマ、スタイルなどが多彩にひろがっていて、子規の世界を堪能させてくれる。随筆に現われる子規は実に魅力的である。

この書のもととなったのは新聞「日本」に164回にわたって連載されたもので、闘病生活の中、途中4日休んだだけである。「こは長きも二十行を限りとし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし」との言葉もあった。これは私たちがやっているブログそのものだと気がついた。現代のブロガーは、子規の随筆に学ぶべきである。

子規の句をあげてみる。

 宵闇や薄に月のいづる音  林檎くふて牡丹の前に死なんかな
 干柿や湯殿のうしろ納屋の前  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
 団栗のゐろりにけむる山の家  月の秋菊の秋それらも過ぎて暮れの秋
 菊を見ず菊人形を見る人よ  春や昔十五万石の城下かな

辞世の句は「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」だ。

子規の言葉。

  • 「病気の境遇に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない。」
  • 「人間のえらさに尺度がいくつもあるが、最小の報酬でもっとも多く働く人ほどえらいぞな。」
  • 「悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

上野に正岡子規記念球場がある。子規は輸入されたベースボールをごく初期に楽しんだ人だ。打者、走者、直球などは子規の発案で、子規は野球殿堂に入っている。

2010年に日本の鉄道の起点だった「旧新橋停車場」を訪問した。「鉄道歴史展示室」がある。「正岡子規と明治の鉄道」という企画展をやっていたので入ってみた。子規が新聞「日本」に連載した「はて知らずの記」(東北紀行)を題材に鉄道の歴史を広報している。「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて」「背にふくや 五十四郡の 秋の風」「君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く」

近代短歌。正岡子規根岸短歌会から始まるが、馬酔木(あしび)によった伊藤左千夫をその流れを引き継ぎ、アララギを舞台に、斎藤茂吉土屋文明、中村憲吉、石原純、釈沼空などの多彩な歌人が出て、この派が重きをなしていく。中心にいたのが島木赤彦だ。子規没後は、根岸短歌会歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となり、島木赤彦、斉藤茂吉土屋文明、寒川陽光などを育成した。

俳句の革命。正岡子規の「写生」 から始まる。子規の後継者・碧梧桐と虚子 明治後期 。虚子は子規の「写生」を一歩進めて俳句人口を広げた功労者であり、「花鳥諷詠」を説いた。虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」とした。そしてホトトギス」黎明期と自由律が求めた「真実の人生」大正期 、ホトトギス」黄金期を築いた「四S」 の昭和期」。。秋桜子の「ホトトギス」批判と新たな試み 、戦争一色の俳壇と何気ない日常 戦中期」と続いていった。

山口誓子は、子規について「自得悟入型のひと。絵画の写生を俳句、短歌、文章に適用し、そのおのおのを新しくスタートせしめた。」と紹介している。子規の教えに従って、俳句を進展せしめたのは虚子。文章を進展せしめたのも虚子。写生文の流れは虚子、左千夫を経て漱石長塚節を生んだ。茂吉は素材拡大の精神を学んだ。近代と西洋。「実相観入」。現実に入って感動し、具象的表現を得て外へ引き返す。短歌を進展せしめたのは茂吉である。

2013年。松山の子規記念博物館で手に入れた『漱石・子規 往復書簡集『(和田茂樹・岩波文庫)を降りに触れて詠む進めていたのだが、ようやく読み終わった。子規の手編みの言葉を拾う。

  • 「生きてゐる間は一日でも楽はしたく贅沢を尽し申候。、、回復の望なくして苦痛をうくるほど世に苦しきのは無之候。」
  • 「余命いくばくかある夜短し」
  • 「左に手に原稿用紙を取りて、物書くには原稿用紙の方を動かして行く、不都合な事、苦しい事、時間を要する事、、」
  • 「人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル。、、、コレホド僕の愚痴ニシテ病気ダヨ。、、君に対して書面上に愚痴をこぼすのハこれ限りとしたいと思ふてゐる。、、、決して人に見せてくれ玉ふな。、、」(「君」は漱石

35歳。9月子規永眠。ロンドン留学中の漱石は、「筒袖や秋の柩にしたがはず」「手向くべき線香もなくて暮れの秋」と詠んでいる。名句である。

伊集院静『ノボさん 小説・正岡子規夏目漱石』講談社)を興味深く読んだ。子規という号は、結核という病を得て赤い血を吐く自分を、時鳥(ホトトギス)が血を吐くまで鳴いて自分のことを知らしめるように、自分の血を吐くがごとく何かをあらわそうと決意し、その別名をつけたものだ。
また漱石という号は、唐代の「晋書」にある「漱石沈流」に因んだものだ。石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す、という意味で、負け惜しみの強い変わり者を意味している。もともと、百ほどの号を持っていた子規が使っていた号だが、漱石に譲っている。

この小説の中では、子規が行った俳句や短歌の革新のために勉強した方法の興味が湧いた。

  • 俳諧年表」と題して俳諧の歴史を研究した。同時に「日本人物過去帳」と題して俳人の研究をした。そして、「俳諧系統」と題して、俳人の系統を一枚の大紙面に罫線を使って系譜としてまとめる作業を行った。年表、人物、系統表はすべて連動していた。
  • 分類の基本は手に入る古い句集を片っ端から読み、傾向をつかみ、そして四季に分類したり、題材別にしたりした。丁寧な作業だった。子規は分析、分類において並はずれた能力を持っていた。
  • 半紙を糊でつなぎ合わせた大紙に俳書年表、俳諧師たちの人物過去帳俳諧の系統、血統を分類した。在野の句集の一句一句までも丹念に書き写し、分析した。

最初に掲げた「子規論」を書いた2016年から、もう7年経っている。この間、漱石との交流の詳細を知ることができた書物や、東京の子規庵、松山の子規記念博物館などを訪ねる中で、巨人・正岡子規への理解が深まってきた。時間が経つにつれて、子規像はさらに深まり、立体的になっていくだろう。この「名言との対話」では、こういうやり方で人物を再度取り上げることもある。それを楽しみたい。