昨日訪問した「企業家ミュージアム」の創業者・市川覚峯の『心に火をつける 創業者100人の言葉』(宝島社)から、いい言葉を選んでみた。
企業家ミュージアムは、日本が誇る企業家の思想の発信と継承を目的に、2015年に設立された。
人に喜びを与え、一緒に幸福になろう(東京コカ・コーラボトリング創業者。高梨仁三郎)
最も良い観光地では、自然の美、人工の美、人情の美が1つに溶け込む(宮崎交通創業者。岩切章太郎)
まず朝起きて読むべき本は、精神の糧となる書物がよい(カルピス創業者。三島海雲)
天職を全うし、自然に来るべき報酬を享けること(片倉工業創業者。片倉兼太郎)
儲ける経営より「儲かる経営」(リコー創業者。市村清)
売り上げは、お客様からの支持率だ。利益は仕事の段取りや効率を示すモノサシである(イトーヨーカドー創業者。伊藤雅敏)
人間はこの世にある限り、自らの全力を尽くして天職を全うしなければならない(コクヨ創業者。黒田善太郎)
美味求真(エスビー食品創業者。山崎峯次郎)
小さな池に大きな魚を(HOYA社長。鈴木哲夫)
新しい製品を作ることによって彼ら(消費者)をリードすることにある(ソニー創業者。盛田昭夫)
人間は踊る舞台を与えれば踊る(長崎屋創業者。岩田孝八)
成功は99%の失敗に支えられた1%だ(本田技研工業創業者。本田宗一郎)
よい知恵は、天から降ってくれるものではなく、われわれ人間に内蔵されているものであり、それは日常的な行動の場からこそ生まれてくる(フランスベント創業者。池田実)
私は自分の脳みそを100%使います。だから死ぬときにはゼロになっていますよ(山善創業者。山本孟夫)
普通の人間が考えたり、したりすることをしていては普通の人間にさえなれない(御木本真珠店、ー創業者。御木本幸吉)
タネ銭を作ったものだけが、この世間の綱渡りできるんじゃ(ホテルニューオータニ創業者。大谷米次郎)
わしは無一物で生まれてきたのだから、無一物で死ぬのが理想だ(第一生命保険創業者。矢野恒太)
企業とは人間を磨く、あるいは人間としての喜びをもつ道場だ(TDK中興の祖。素野福次郎)
企業は、経営者の器以上に大きくならない。だから、自分の成長が止まったら、軽蔑されて当然だユニチャームを創業者。高原慶一郎)
一業に専念するには忍耐がいる。一つの道に専念すると意外に新しい展望が開ける(ブラザー工業創業者。安井正義)
働いて、働いて、働き抜いてこそ、努力は報われるし、運も神も呼び寄せることができる(大塚製薬創業者。大塚正士)
人間はなまじっかカネがあると働かない(明光商会創業者。高木礼ニ)
今日からスタート。過去を切り捨てよ(ユニー社長。西川俊男)
創業元年(バンダイ創業者。山科直治)
仕事は自ら創るべきで与えられるべきでない(電通中興の祖。吉田秀雄)
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明日のユーチューブ番組「遅咲き人伝」の準備。
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夜はズームで深呼吸学部に参加。
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「名言との対話」5月14日。斎藤茂吉「なにかを光らせるためには、光るまで磨くだけでいい。」
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日]- 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人・精神科医。
山形生まれ。14歳の時に父と上京し斉藤病院に寄宿。開成中学に通う。16歳頃から歌を詠むようになる。20歳、一高入学。22歳、本格的に作歌。23歳、次女輝子(13歳年下)のムコ養子として入籍。東京帝大医学科入学。24歳、伊藤左千夫に入門。26歳、アララギ創刊に参加。27歳、鴎外の観潮楼歌会に参加。28歳、卒業。29歳、アララギの編集担当、東京帝大副手。31歳、死にたまふ母、56首。第一歌集「赤光」を刊行。32歳、次女輝子と正式に結婚。33歳、島木赤彦がアララギ編集発行人に。34歳、長男茂太。35歳、長崎へ単身赴任。39歳、第二歌集「あらたま」刊行。文部省財が期研究員として欧州へ。41歳、実父死去、関東大震災。42歳、医学博士、青山脳病院全焼。44歳、世田谷区松原に病院を再開、アララギ編集発行人。45歳、病院長、宗吉(北杜夫)誕生。48歳、アララギ、土屋文明と交代、妻と別居、柿本人麻呂の研究に傾注。56歳、「万葉秀歌」。同年「柿本人麻呂」で透谷賞。58歳、帝国学士院賞。63歳、12年間別居していた輝子が青山に戻る。宗吉が初めて茂吉の「寒雲」を読み感動、アララギ復刊。65歳、上山で昭和天皇に言上。66歳、宗吉が東北帝大医学科に入学。69歳、文化勲章。70歳、永眠。
斎藤茂吉とは私も縁が深い。茂吉の記念館や、多くの企画展で茂吉をという人物をみてきた。
2004年。茂吉の故郷の山形の上山の仙山線に斎藤茂吉記念館前という駅がある。ここで茂吉56歳の時の自作短歌朗詠コー-ナーがあり、茂吉の生前の朗々とした声を聴くことができた。最後の歌は「いつしかも日がしづみゆき うつせみの われもおのづからきはまるらしも」。茂吉の名前は、長男茂太、次男宗吉(北杜夫)に分けられている。茂吉の後を継いだ代表的歌人の中に、柴生田稔という名前があった。この人は日航時代の私の上司の父親で、葬儀に行ったことがある。
日本初の脳病院であった青山脳病院の跡継ぎ探しで、目にとまった少年茂吉は徒歩で仙台に行き、そこから東京に向かった。医学と文学の長い葛藤が始まる。一高では漱石に英語を習っている。面白いのは、茂吉は次男北杜夫が昆虫などの動物学や文学活動は認めず、医学の道を勧めたことだ。しかし杜夫もまた文学の道へいくことになる。年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。
伊藤左千夫門下で、大正から昭和前期にかけて活躍したアララギの中心人物であるが、精神科医としては青山脳病院(現在の東京都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。
テレビの番組で茂太、北杜夫が父茂吉を語るコーナーがあり、茂太は「蔵王のイメージが頭の中にあった」、北杜夫は「一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」。蔵王の頂上には茂吉の歌碑がある。茂吉の故郷を想うイメージには蔵王、最上川、出羽三山があった。
2012年。斎藤茂吉と「楡家の人びと」展。この企画はサブタイトルで「追悼 北杜夫」とあるように、2011年に亡くなった人気作家の父・斉藤茂吉と茂吉を挟んだ斉藤家3代の物語である「楡家の人びと」の企画展だ。私が学生時代に読んだ記憶のある「楡家の人びと」は、1964年に出版されている。一族3代の繫栄と衰退の大きな物語を軸に近代日本の時代と運命を描いた2000枚近い傑作である。北杜夫はこの本の執筆に3年以上かかっている。
三島由紀夫は、「これほど巨大で、しかも不健全な観念性をみごとに脱却した小説」「これこそ小説なのだ!」と最大級の賛辞を送っている。また、初代院長基一郎は、何といふ魅力のある俗物であろう」とも語っている。
「それまで私は父のことをただやりきれぬおっかない存在とだけ思っていた。しかし初めて父の歌に接して以来、彼は突如として茂吉という尊敬する男に変貌した」と北杜夫は回想している。その歌集は「寒雲」である。この中の「木芽」の14首がそれである。
「楡家の人びと」では、茂吉は病院を切り盛りする人物としてのみ描かれていて、歌についてはまったく触れていないのだが、後に書く「青年茂吉」「壮年茂吉」「茂吉晩年」「茂吉彷徨」の4部作では、茂吉の歌を560首引用して、偉大な歌人・茂吉の評伝としている。
2015年。世田谷文学館の1階では、「戦後70年と作家たち」が開かれており、 8月15日を迎えた作家たちの日記が並んでいる。 斎藤茂吉は「萬軍」という決戦歌集を編んでいた。「暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの」「この心死すとも止まじえみし等をつひの極みに撃ちてし止まむ」(歌集「萬力」から)
2018年。渋谷の松濤美術館で開催中の「斉藤茂吉--歌と書と絵の心」展。斉藤茂吉は「赤光」から「つきかげ」まで17冊の歌集を出した。生涯の歌は1万8千首。「写生道」という見事な書をみた。正岡子規の「写生」に道をつけたのだ。東京では、伊藤左千夫に短歌の師事。医学と文学との長い葛藤が始まる。「赤光」という名前の処女歌集が高く評価された。芥川龍之介が茂吉の評価者だった。暮らしがあれば歌が生まれる。アララギを継げ編集発行人に。歌集を並べてみたり、年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。「ぼうぼうとしたるこころの中にいて 、、、、」。一高では漱石に英語を習う。友人が多いのが印象的だった。柿本人麻呂の研究に没頭し、昭和8年秋から始め、9年11月に総論編、15年12月に雑纂編、全15巻4千ページ。
原稿用紙の文字は几帳面な性格が現れている。書が優れており近代文人の中でも有名、絵もうまい。茂吉は歌集と歌論と随筆を書いた。遺品としてカンカン帽子、ムギワラ帽、リュックサック、メガネがあったが、このカンカン帽は最上川のほとりに座る茂吉がかぶっていたものだろう。斉藤茂吉文学賞があり、馬場あき子や佐々木幸綱の名前があった。
面白いのは、茂吉は次男北杜夫が昆虫などの動物学や文学活動は認めず、医学の道を勧めたことだ。しかし杜夫もまた文学の道へいくことになる。「実相観入」という書は、実相に観入して自然・自己の一元の生を写す。という意味だ。対象とひとつになりきることによって「生」を写す。子規の写生を発展させたものだ。歌論集『柿本人麿』は原稿用紙製本14冊。8年かけた研究。単行本5冊の大著。帝国学士院賞を受賞。茂吉は63歳から本格的に絵を始め、80点を描いている。
この企画展での収穫は、茂吉の作家理念がわかったことだ。アララギそして斎藤茂吉は「写生」ということを言ったのだが、その意味は「生を写す」という意味であったのは、感動した。写生という言葉はよく聞いてきたが、自然をそのまま忠実に表現するという意味に捉えてきたが、生命を写し取るという深い意味があったのだ。優れた書家でもあった茂吉は、この作家理念を「写生道」と書いている。また、茂吉は絵もうまい。
茂吉は、さまざまな大きさと形の手帳を使っていた。北杜夫は散歩に同行したときに、その手帳に熱心に書いている神々しい姿を目撃している。「父の日常観察をしていると、実にこまめにこの手帳い何かを記していた」。「大きなる御手無造作にわがまへにさし出されけりこの碩学は」「時のまもかりそめならぬわが業(げふ)をいそぎいそぎて年暮れむとす」
10歳年下の芥川龍之介と茂吉は親しかった。芥川は茂吉に薬の処方をしてもらっていた。その芥川は「これは単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである」と茂吉を評価していた。
妻・輝子とは相性が悪く、「ダンスホール事件」で輝子の実名が出たこともあり、別居する。茂吉は一人で4人の子を育てることになった。茂吉の50代半ば、年若い女性との恋があった。「清らなるをとめと居ればかなしけり青年(をとこ)のごとうわれは息づく」
斎藤茂吉が尊敬していたのは、森鴎外と幸田露伴だった。この二人だけは「先生」と呼んでいた。鴎外は医者と文学者を両立した先輩だったこともあるのだろう。
「豊酒はためらはず飲め 楽しかる今日の夕べのこの一時を」
「あかあかと一本の道とほりけりたまきはる我が命なりけり」
「とうとうとらっぱをふけば塩原の深染の山に馬車入りにけり」
「いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも」(絶唱)
「おっかないやりきれない父であった茂吉は、だしぬけに尊敬するにたる歌人として私の前に出現した」という北杜夫はの『どくとるマンボウ青春記』に父の作歌の場面がある。「父はまだうずくまっていた。頭をかかえるようにして苦吟していた。そうして、茂吉という歌人が全身をしぼるようにして考え込んでいるさまは、私にやるせないような感銘を与えた」。「父にはユーモア感覚というものが欠如している。そのくせ彼の言動、その文章に妙に可笑しみを誘うものがあるのは、すべての事柄にあまりにひたぶるで、鶏を割くにもノコギリを用い、一匹のノミを捕えるにも獅子のごとく全力をふるうからである」
「 茂吉は、一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」と北杜夫は語っている。あらゆるものは石ころとして身辺に転がっている。どの石も原石の資格がある。縁のあった石を長く磨くだけで光ってくる。短歌の世界で輝く星となった斉藤茂吉は、そういった気持ちで毎日原石を磨き続けたのだろう。この茂吉の言葉からは勇気をもらえる。