蓋棺録:伊集院静。『ノボさん 小説・正岡子規と夏目漱石』『無頼のススメ』『大人の流儀』『ミチクサ先生』

作家の伊集院静の訃報が入った。享年73。このブログに登場した伊集院静の著書に関する記述を記して追悼する。夏目漱石正岡子規に関する本、そしてエッセイを読んでいる。

 

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

 
伊集院静正岡子規全集を2年簡にわたって読み込んで、それからおもむろに筆をとって小説に仕立てあげた作品である。この全集は素晴らしい出来だったそうで、子規の魅力が満載だと伊集院は別のところで語っていた。
わずか36年の短い生涯の中で、俳句と短歌の革新を成し遂げた偉人、ベースボールの導入者、そして人が自然に寄ってくる魅力を備えた人物、それが正岡子規だ。
その子規と同年生まれの日本小説の原型をつくった文豪・夏目漱石との肝胆相照らした友情の物語でもある。子規という人物の魅力が細かいエピソードを通じて伝わってくる本だ。

子規という号は、結核という病を得て赤い血を吐く自分を、時鳥(ホトトギス)が血を吐くまで鳴いて自分のことを知らしめるように、自分の血を吐くがごとく何かをあらわそうと決意し、その別名をつけたものだ。
また漱石という号は、唐代の「晋書」にある「漱石沈流」に因んだものだ。石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す、という意味で、負け惜しみの強い変わり者を意味している。もともと、百ほどの号を持っていた子規が使っていた号だが、漱石に譲っている。

さて、この小説の中では、子規が行った俳句や短歌の革新のために勉強した方法の興味が湧いた。

  • 俳諧年表」と題して俳諧の歴史を研究した。同時に「日本人物過去帳」と題して俳人の研究をした。そして、「俳諧系統」と題して、俳人の系統を一枚の大紙面に罫線を使って系譜としてまとめる作業を行った。年表、人物、系統表はすべて連動していた。
  • 分類の基本は手に入る古い句集を片っ端から読み、傾向をつかみ、そして四季に分類したり、題材別にしたりした。丁寧な作業だった。子規は分析、分類において並はずれた能力を持っていた。
  • 半紙を糊でつなぎ合わせた大紙に俳書年表、俳諧師たちの人物過去帳俳諧の系統、血統を分類した。在野の句集の一句一句までも丹念に書き写し、分析した。

この本の中に、俳句や短歌がときおり出てくる。短いが故に読者の心に直接届いてくる。寺山修司が亡くなる前に「しまった。俳句をもっとやっておけばよかった」と叫んだことを想いだした。俳句や短歌は「残る」のである。

 漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)(子規)
 有る程の菊なげいれよ棺の中(漱石
 筒袖や秋の柩にしたがはず(漱石
 手向くべき線香もなくて暮の秋(漱石

イギリスから帰国した漱石は2年後に、故・正岡子規にちなみ、子規の弟子の高浜虚子が主宰する文芸誌「ホトトギス」に最初の小説「吾輩は猫である」を発表し、翌年には「坊ちゃん」、「草枕」を発表した。子規がいなければ、文豪漱石も誕生してはいなかっただろう。

 

2011年。伊集院静「大人の流儀」

  • 自分のことを棚に上げて、正義を振りかざす輩を嘘つきと呼ぶ。
  • 喧嘩ははじまったらやめないことである。
大人の流儀

大人の流儀

  伊集院静「無頼のススメ」(新潮選書)--日本人は必ずまた戦争を起こす

無頼のススメ (新潮新書)

無頼のススメ (新潮新書)

 

無頼とは頼るものなしという覚悟のことだと喝破する著者が語る自立、独立独歩のすすめの本。本人の言葉も面白いが、父や肉親の言葉、そして作家らしく古今東西の人の生き方に目を注いでいる。

  • チャーチルヒトラースターリンも、会ってすぐに「ああ、この男は信用できない」と見切っている。
  • 今の若者には確かにかつての戦争の責任はない。しかし、戦争の真実を知り、再び戦争を繰り返さないことに関しては責任がある。(アウシュヴィッツ収容所のリーベヘンシェル所長)-
  • セックスとは、果てるたびに小さな死と出会うこと。(ジュルジュ・バタイユ
  • 長く生きるというのは素晴らしいことなんだ。だけど長く生きるためには術(すべ)がいる。術をマスターしなくてはね。(色川武大
  • 仕事というのは誰かの役にたってこそ仕事なんだ。ばくち打ちは一から十まで自分だけで他人のことなどおかまいなし。そんなの仕事じゃないだろう。(車券師の名人の言葉)
  • ギャンブルは九勝六敗を狙え。(色川武大
  • 二日や三日徹夜するぐらいなら誰でもできる。やっぱり、運だな。(佐治信忠)
  • 相手を恐れることはないが、練習をしないことに対しては恐怖を感じる。だから鍛錬し続ける。(内山高志:ボクシングの世界チャンピオンで8度の防衛)
  • 虚しく往きて実ちて帰る(空海
  • 日本人は常に大勢に流れる(イザベラ・バード
  • 伊集院静の父(13歳で朝鮮半島から日本にわたってきた)
    • いいか、金で揺さぶられるな、金がないからといって誰かに揺さぶられるような人間になるな。
    • 人に物乞いをしたら、もう廃人と同じだ。
    • 軍人になると自ずと現れてくる本性を実際に目にして、日本人はいつかまた戦争を起こすだろう。その時、真っ先にお前たちは槍玉に挙げられる。根っこは簡単にはなくならない。日本人は必ずまた戦争を起こす。
  • 母が祖母から言われた言葉。
    • 「男の人殺しが縄をかけれて連れ回されているときに、絶対に石を投げたりしてはいけない」。「身体を売るために町に立っている女の人に、パンパンとか夜鷹とか絶対に言ってはいけないし、子どもの口からも言わせてはいけない」。

伊集院静:・美の旅人」・「怒りがわく」という心の在りよう。・差し伸べている手の上にしかブドウは落ちてこない。・運や流れを引き寄せるのに必要な心構え。うつむかない。後退しない。ウロウロする。・何らかの「核」を持った人間が運を逃さず、作り続けた作品だけが時代を超えて残る。・人間というのはカニみたいなもんだな。

 

2021-05-21。日本経済新聞の連載小説「ミチクサ先生」。タイトルは「ミチクサが多いほうが、人生は面白い」が命名の趣旨である。

作品を読んだ金之助はその作品の価値を的確に捉えるから、誉められた若手作家は、その栄誉に恥ずかしくない作品を書こうとするようになる。鈴木三重吉「なかなか佳い文章を書く人です」。樋口一葉「『金色夜叉』よりはるかに良い作品だ」。島崎藤村「明治の時代に小説らしき小説が出たとすれば『破壊』であろう」。野上弥生子も。

 
「契約には、年に二度、百回程度の連載小説を執筆することが盛り込まれていた」。「一年の大半を朝日のために小説を書き続けなくてはならなかった」。「結果として執筆はとどこおらず、短い歳月の中で、夏目漱石という作家は、驚くほどの量の、しかも質の秀れた小説を書き上げることになるのである」。以上は帝大を辞めて朝日新聞に移る時のいきさつに関しての5月25日の記述です。

2017年9月24日にオープンした日に新宿区立漱石山房記念館を訪問した。漱石山房記念館には、帝国大学を辞めて朝日新聞に入る時の条件について様々のことを確かめている手紙類が展示されていました。朝日はこの交渉において、漱石を小説を書くことに没頭させる待遇を提示しています。そのことが結果的に、短い時間の中で、量と質、ともに優れた小説を生むことになったというのが伊集院静の見立てです。

早稲田から歩いて10分に記念館は、漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所です。この年に東京帝大を辞し朝日新聞社に入社し、わずか10年足らずの間に、「抗夫」以後、「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた。それは日本近代小説の金字塔となった。やはり、伊集院の見立ては当たっているように思います。締め切りが大事なことをうかがわせます。

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「名言との対話」11月24日。西園寺公望「旦那寺食わしておいてさてと言い」

西園寺 公望(さいおんじ きんもち、1849年12月7日嘉永2年10月23日[注釈 1] - 1940年昭和15年)11月24日)は、日本公家政治家教育者

桂太郎と交代で総理をつとめ「桂園時代」と呼ばれた。「最後の元老」。

京都出身。学習院で学び、後の明治天皇の近習となる。戊辰戦争に参加。維新以後は開成学校でフランス語を学ぶ。京都で家塾「立命館」を創始する。1871年にフランス留学。ソルボンヌ大学初の日本人学士となった。政治家クレマンソーと同じ下宿で親友となった。

1880年に10年の留学を終えて帰国。伊藤博文憲法調査のヨーロッパ歴訪に参加し伊藤の信任を得る。1894年に45歳で伊藤内閣の文部大臣、後に病気で退任した陸奥宗光の後任の外務大臣も兼任。1898年には再び伊藤内閣の文部大臣。枢密院議長を経て、政友会総裁。1906年桂太郎からの禅譲で総理に就任。その後、桂と西園寺は交代で総理をつとめていく。二人はライバルであり、また親友であった。西園寺は「君と僕とで国家を背負ふて立とうではないか」と言っている。1916年には元老となった。

第一次大戦終了後のパリ・ベルサイユ条約の首席全権。会議では一言も発せず、会場をにらんでいたとされ、話題になっている。ここでクレマンソーと20年ぶりに再会している。

大正末期から昭和初期にかけて、元老として何度も首相推薦の役をつとめている。「山公(山県有朋薨去後は松方侯は老齢でもあり、、、自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山県の後継者であることを意識していた。

1936年の二・二六事件を経て次第に政治上の権力を失っていく。それでも最後まで軍部の圧力に屈しず、日本を導いていこうとした。しかし、その努力は報われず日本は日独伊三国軍事同盟を締結して戦争に向かう。「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いている

西園寺公望は5つか6つの頃から酒をちびりちびりと飲む子どもだった。後年、洋服を着て参内したのも、公卿で断髪したのも公望が最初だった。進歩的思想の持ち主だった。

常に「名門だから」と言われる悲哀があり、実力をもって天下に立ちたいと、自由思想にあこがれていた。すべての官位を辞し、名も望一郎と平民的な名前に変えることもしている。

「いろいろやってみたが、結局、人民の程度以上にはならなかった」と語っている。92歳という高齢まで日本の近代化に努力した西園寺公望が、戦争に向かう道を防ぎきれなかったことを嘆いた言葉である。政党が育たなかったという嘆きだ。

公債を募集することになったとき、実業家たちを総理官邸に招き宴会を開いた。最初の挨拶は「旦那寺食わしておいてさてと言い」から始めて感心させ、成功している。こういうユーモアは威力がある。

90歳で逝去するまで、「最後の元老」として、大正天皇昭和天皇を輔弼し、実質的な首相選定者であった。その首相たちの人数と名前を眺めると、苦労が多かっただろうと推察される。自身に対しても、政党、軍などからの毀誉褒貶が多く、政治に嫌気もさしていたことが残っている言葉からもわかる。仕えた伊藤博文に対しても「政治などというものは、ここの親爺(伊藤博文)のような俗物のやることだ」と同席した尾崎行雄に吐き捨てるように言ったという。

しかし、日本の運命を切り盛りする大役を果たそうとした心意気は壮であり、またユーモリストで皮肉屋であったことが示すように、元老時代は政治の世界との絶妙な距離感を保っていたのであろう。