日光市。

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「日本の心の歌ミュージアム船村徹記念館」を訪問。日光市

道の駅に併設された記念館。

「別れの一本杉」「王将」「兄弟船」「なみだ船」「「女の港」「みだれ髪」などの名曲の作曲家である。

この人は社会活動もいい。演歌巡礼。刑務所訪問。作家。横綱審議会委員。「山の日」提唱者。

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 日光東照宮

神君・家康を祀った神宮。現在、平成の大修理事業が行われている。

陽明門の修理は、2013年7月から始まり、2017年2月16日に終了した。創った当時の姿そのままになった。実に見事だ。一日中みても飽きないといわれ、日暮らしの門と称された。 

「四百年式年大祭記念・日光東照宮宝物殿」も訪問。

 

「名言との対話」3月18日。石田波郷「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を接してひと息に表現することにあると思ふ」

 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年大正2年)3月18日 - 1969年昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、「馬酔木」に拠ったのち、「」を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句からはじまり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求、加藤楸邨中村草田男らとともに人間探求派と呼ばれた。

松山に生まれた波郷は、中学4年の時に友人・中富正三(後の大友柳太朗)のすすめで句作を始める。水原秋桜子率いる「馬酔木」に参加し、24才で俳誌「鶴」を主宰、31才から入隊し中国にゆく。33才から江東の地に住む。39才、出版社「竹頭社」を起こす。41才、「定本石田波郷全句集」。翌年読売文学賞。46才、朝日新聞俳諧選者。55才、句集「酒中花」。翌年芸術選奨文部大臣賞。56才死去。

 波郷の病気療養を詠んだ句は「療養俳句の金字塔」とも言われた。
 はこべやら 焦土のいろの すずめども
 雁や のこるものはみな 美しき
 浅間山 空の左手に 眠りけり

12年間住んだ江東区は昭和20年3月9日から10日にかけて空襲で町が焼失し、波郷はそのことをよく詠んだため「波郷の焦土俳句」とも言われている。
「風切宣言」では、「俳句の韻文精神の徹底」「豊穣なる自然と剛直なる生活表現」「時局社会が俳句に要求するものを高々と掲出すること」、と俳句をつくる意味を語っている。その上で、対象を単純化しひと息に表現する。それが波郷の俳句であった。