大城立裕氏が本日死去ーー沖縄初の芥川賞作家。

大城立裕の訃報が飛び込んできた。享年95。

小説「琉球処分」を書いた大城立裕が、川端康成文学賞を受賞したというニュースをみたので、興味が湧いて受賞作の載った「レールの向こう」(新潮社)という単行本を読んだ。 

レールの向こう

レールの向こう

  • 作者:大城 立裕
  • 発売日: 2015/08/31
  • メディア: 単行本
 

 「レールの向こう」という短編小説は、大城には珍しい短編の私小説である。脳梗塞をわずらった妻の介護と、亡友の思いとからめた作品となった。それが独自の普遍性を生んだ。
大城は数十年間にわたる作家生活で「沖縄」にこだわってきて、「沖縄の私小説」を書いていますと言ってきたが、これらの作品で、私小説の普遍的な存在が見えたそうである。

自身の病気を扱った「病棟の窓」、縁者をモデルにした「四十九日のアカバナー」、甥をモデルにした「エントゥリアム」、フィクション性の薄い「天女の幽霊」など。いずれも沖縄の風土と日常が匂ってくるような作品である。

公務員勤めをしながら小説を書くという生活を始めたのが、60年前で、定年退職をした後も続けてきた、と「レールの向こう」の中で述懐しているように、42歳で「カクテルパーティ」で沖縄初の芥川賞を受賞するなど、この人は二足のわらじを履き、そして60歳の定年後は89歳の現在までの30年間にもわたって文筆活動をつづけているのだ。そしてなお新しい境地を拓いた私小説で川端賞を受賞した、という事実に感銘を受ける。

この人の人生に興味を持ってこの本の最終ページにある経歴を探す。そこには「著者自筆略歴」が一ページに記されている。略歴というより人生の総括といった趣がある。

1925年沖縄生まれ。沖縄県費生として東亜同文書院大学予科に入学するが、兵役、敗戦で中退。基地勤務、高校教師を経て、25歳以降は琉球政府沖縄県の公務員生活を送る。経済企画課長、通商課長、公務員研修所長、沖縄史料編集所長、県立博物館館長を歴任し、定年退職。
この間、芥川賞を受賞した後は、琉球・沖縄の歴史と民俗をテーマとした前近代史、近代史、戦後史にわたる作品を書き続ける。2002年、77歳で全集を勉誠出版から刊行。受賞歴をみると、平林たい子賞紀伊国屋演劇賞特別賞、紫綬褒章沖縄タイムス賞、琉球新報賞、沖縄県功労賞、日本演劇協会演劇功労者表彰、そして今回の川端康成文学賞になる。

大城立裕は、作家としては、宮仕えをしながら30年、自由になって30年ということになる。このような人生の先達の姿に粛然とする。

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同じく2015年に読んだ『琉球処分』(上下巻)についてブログに書いたもの。

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)

  • 作者:大城 立裕
  • 発売日: 2010/08/12
  • メディア: 文庫
 

  

小説 琉球処分(下) (講談社文庫)

小説 琉球処分(下) (講談社文庫)

  • 作者:大城 立裕
  • 発売日: 2010/08/12
  • メディア: 文庫
 

 著者は「カクテル・パーティ」で芥川賞を受賞した作家である。沖縄出身では初めての快挙。

この本は1968年に単行本として出版されたが、もともとは1959年から琉球新報に連載したものである。その連載に書き加えて、1968年に出版された。連載当時はあまり注目されなかったが、1972年の本土復帰の前後に読みなおされた。

1872年から1880年までの8年間の、沖縄が明治政府のもとで強制的に日本に組み込まれたプロセスを描いた物語だ。
歴史は事実の羅列だけでは、理解が不足する。その時代に生きた人々の吸った空気、ざわめき、憤り、友情、志、、などが記されていないからだ。
ここ数か月、沖縄関係の書籍を乱読しているが、この小説を読む中で、日本政府の要人たちと、対応した琉球の人々の人心とその息遣いを感じることができたように思う。これが小説というものの効用である。

琉球は、長い間、日本と中国の両方に属す両属国家であった。処分官・松田道之はじめ明治の近代国家を建設中の日本政府の官僚たちは、長い琉球の歴史に敬意を払いながら、穏健に日本政府の中に組み込もうとする。大久保利通伊藤博文などが松田の上司だ。

「内政に似てしからず、外交に似てしからず、微妙な国際的駆け引きのなかで、純情らしくあるいは老獪らしい琉球の人士を相手の心労」に時間をかける。しかし中世のままの存在であった琉球との交渉の根気くらべに負けて、最後は、強硬策をとり、王(藩王)を上京させ華族に列させて、日本の中に組み入れてしまう。この過程を克明に書きながら、歴史の転換期の当時の関係者の苦悩を描いている。

若い主人公は最後にこう思う。
「歴史を変えることはできない」といま言ってしまってはいけないのだ。たとい、こんな平凡な事務をとりながらでも、、、疑う自由があるかぎり、まだなにかを生み出すことができないとは限らないのだから、、。

琉球と沖縄の人々の粘り強さ、忍耐づよさ、我慢強さ、しぶとさを垣間見る思いがする。

沖縄出身の佐藤優は、解説の中で普天間問題は「平成の琉球処分」と沖縄は受け止めていると語っている。「はねかえしてもはねかえしても寄せてくる」ような静かな抵抗を沖縄から受けるだろう。その抵抗が繰り返す中で、日本の国家統合が内側から崩れ出す、その過程が始まっていると警鐘を鳴らしている。

沖縄問題の根源に迫る名作である。

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自宅で仕事。

・民博への御礼のメールを出す。

・自分史関係プロジェクトの起案。

・授業の準備。今週「持続する志」と来週「怒涛の仕事量」。

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ジム:4キロ40分のウオーキング。時速6キロ。BSで「赤毛のアン」のプリンス・エドワード島の取材を見ながら。

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「名言との対話」10月27日。角川源義「一念一植」

角川 源義(かどかわ げんよし、1917年大正6年)10月9日 - 1975年昭和50年)10月27日)は、日本実業家国文学者俳人角川書店(現・KADOKAWA Future Publishing)の創立者

1917年富山県生まれ。13歳で俳句に興味を持つ。15歳、同郷の金尾梅がいた俳誌「草上」に投稿。四高受験に失敗し浪人中に折口信夫『古代研究』に感激し、折口のいる大学に入ろうと決意する。父は反対であった。

22歳、國學院大學国文科に進学し、折口信夫武田祐吉の指導を受ける。折口の短歌結社鳥船社に入門。折口は弟子が結社誌や同人誌に関係するとすぐに破門するので、句作を断念する。24歳、戦時のため繰り上げ卒業。27歳で中学校の教諭になるのだが、終戦時買った古本の空白に「目がつぶれる程本が読みたい」との書き込みがあり、教壇に立つより、出版をやろう決意し、翌年に辞任する。多くの人々に志を訴えることができるからであった。角川源義の志は、短詩型文芸の啓蒙であった。1945年、角川書店を創立。1946年に「語り物文芸の発生」が完成するが、空襲で印刷所が被災しする。しかしゲラが残った。それが後の博士号論文となる。1946年、桑原武夫が雑誌「世界」に「第二芸術論」を発表した。それはトルストイミケランジェロなどが代表する本物の芸術を第一芸術と呼び、俳句などを第二芸術と呼んだものだった。虚子などは「芸術として認めれたのだから、第二でもいいじゃないか」と開き直った。しかし29歳の角川は反論した。地下の力こそ俳句の生命であり、庶民の娯楽こそ俳句の宿命であり、娯楽に文学意識などない。遊びの文芸というなら、漱石の「猫」は遊びの文学だ。芸術に第一も、第二もないという趣旨であった。30歳、俳誌「古志」創刊(後に「季節」)。32歳、結婚。35歳、雑誌「俳句」創刊。1956年に処女歌集「ロダンの首」を発表。41歳、文学博士。55歳、「雉子の声」で日本エッセイストクラブ賞。56歳、俳句文学館建設委員長。58歳(1975年)、逝去。1976年、句集「西行の目」に読売文学賞

角川源義は、近代俳句のリーダとして飯田蛇笏と石田波郷を信奉していたが、二人とも死亡してしまう。山本健吉の死によって「文人俳句」は終わったともいう。それは古典研究、民俗学、評論、俳句作など文芸全般の多岐にわたり立派な仕事をした人の句業である。

同志350人を糾合し俳誌「河」を刊行。焦土の上に一本の緑樹を植える運動を起こそうというものだった。抒情の回復の叫びであった。俳句の世界に登場しつつあった無季・自由律を角川は許せなかった。この病理・病弊と闘った。

第三句集「神々の宴」では、古代復活を次の詩業とし、折口学を俳句によって樹立しようとした。

娘・真理の三回忌には「つくづく俳句をやっていて良かったとおもうよ」と語っている。苦難を克服して生きぬく発想の転換に意味があると「境涯俳句」も支持している。

「俳句はものを言ってはいけない文芸だ。言いたいことは抑えて季語に語らせればいい」と季語を重視した。

 清貧に 生きて 大志や 冬柑子   雪はねて けろんりんかんと 春日かな。

 作家の辺見じゅんは、角川源義の娘で、「日本の民話」シリーズ。「呪われたシルクロード」「男たちの大和」「探訪・北越雪譜の世界」「花冷え」など、民俗、太平洋戦争、短歌などで活躍した人である。 角川春彦・歴彦は異母弟である。辺見じゅんは偉大な父のつくった複雑な家庭環境にあったことで、冷静かつ批判的に家族をとらえる一方で、親子の愛情について私小説風の作品では細やかに描写している。現代短歌女流賞を受賞してる歌人でもあり、「みんなみの ニューブリテン島の 蛍の樹 遺書に記して 二十一歳なりき」 などの歌がある。歌集は7冊上梓しており、幻戯山房では源義の俳句と一緒に並んでいた。

 今回改めて、分厚い『角川源義の時代ー角川書店をいかに興したか』を読んだ。

出版活動の最終目的は『日本地名大辞典』の刊行だった。1900年から始まり1907年に完結した吉田東伍『大日本地名辞典』を超えるものをつくろうとした。地名は生きた歴史だ。最終的に都道府県委員195名、地区・専門委員、執筆者5551名という12年間にわたる大がかりなプロジェクトである。150万枚のカードを使って、初見から歴史的変遷、人々の生活を記述する。刊行は死後になるのだが、高い評価を得て、発行部数は100万部に達している。完結の翌年の1991年に毎日出版文化賞特別賞を受賞している。出版では岩波書店を尊敬し、その後を追う形で総合と啓蒙の「角川文庫」の創刊して文庫ブームを牽引した。また予約制の「昭和文学全集」も刊行している。

この異能の人の座右の銘は「一念一植」である。『親鸞』に出てくる吉川英治箴言であり、吉川に書いてもらったこの言葉を寝室に飾っていた。一つに無心になって熱中する。一度の多くのことをするのではなく、興味のある対象をじっくりと育ててというスタイルで、俳句ー国文学ー出版という直線上を自由に移動した。マルチ人間という意識はなく、源義自身は一事専心の生涯を送ったのである。