「副学長日誌・志塾の風」171213
・人事委員会:非常勤講師の選任
・学部運営委員会:学長・幹部人事。私大協セミナー、、、。
・金先生・杉田先生・川手課長:雑談。施設点検ツアー、、。
・金先生:リレー講座の講師人選の相談。
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夜は町田で弟との飲み会。
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「偉人の命日 366名言集」~人生が豊かになる一日一言~感想文(その2)
私が死ぬまで忘れることのできない人の命日、それこそ三島由紀夫です。1970年(昭和45年)11月25日。世界に衝撃を与えた三島由紀夫の割腹自殺!今でも語り継がれる謎の多い事件であります。その時私は大学3年で下宿でのんびりしていたが、臨時ニュースに驚きのあまり、下宿を飛び出して友人宅に行き、「なぜ?」と叫んだのを昨日のことのように思い出します。辞世の歌は二つあると聞きます。「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜風」「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」
三島由紀夫が自決した当日、特に信頼している人で、市ヶ谷自衛隊に来るように事前に連絡した毎日新聞(当時)記者の徳岡孝夫氏著書「五衰の人」によれば、ある有名作家がこの二つの辞世の歌は駄作だとケチをつけたそうです。私には三島由紀夫の決意が何となく伝わってきます。「嫉妬こそが生きる力だ!」という彼の名言、何に嫉妬したのでしょうか?ノーベル文学賞かもしれませんネ。文中にある三島由紀夫の絶望的な未来予想は、ずばり日本の現在を鋭く見抜いており、慧眼と言えましょう!三島ファンとしてはもっと小説を書いてほしかったですね。
三島由紀夫の割腹自殺を「気が狂ったのか」と正気?で語ったのが当時の総理大臣佐藤栄作。佐藤栄作は実務家で人事の佐藤と言われるように「議論より対策実行そして実効あらしめる事」はビジネスの世界にも通用する名言だと感じます。三島の死を「もったいない死に方をしたものです」と一番嘆き悲しんだのが川端康成ではないでしょうか?ガス自殺が1972年の4月16日。三島由紀夫の死から2年後です。日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は「運がよかった、そして三島由紀夫君が若すぎたことのおかげだ」と同情のまなざしを向けています。ドナルド・キーンはノーベル財団から日本のノーベル文学賞候補者を聞かれ「谷崎、川端、三島」の順で推薦したと書いていました。順番の理由は日本風に年功序列にしたとユーモアを交えて語っています。川端康成の名言は「夫や子を持つたびに心の眼は開けてゆく」とありますが、若い女性向けに家庭を持つ大切さを説いた言葉ですね。
佐藤栄作の日記に「田中幹事長のおしゃべりには閉口、、、電話で注意とか、走り過ぎにブレーキ」などと書いているそうです。田中角栄と言えば大蔵大臣就任にあたり大蔵省職員を前に語った名言は有名で、「すべての責任は、この田中角栄が負う」は上に立つ人の模範的な心構えだと思います。さらに「トゲの多い門松をたくさんくぐってきて仕事のコツを知っている」も心に響き、苦労人の真骨頂が出ていますね。「一番力があるときこそ一番難しい問題に挑戦するんだ」と言い日中国交回復を実現したのは後世に残る偉業でしょう!娘の田中真紀子が上梓した「父と私」には、彼女の結婚式で田中角栄がスピーチし、感極まって落涙したとの記述があります。コンピューターつきブルドーザーも人情あふれる親父だったようです。
日中国交正常化と言えば忘れてならないのが大平正芳。「着々寸進 洋々万里」
大平さんの風格を表す名言ですね。選挙期間中に急死なされたのは惜しまれます。お孫さんが「祖父大平正芳」を上梓していますが、その著書でご長男が26歳の若さで死亡したことを知りました。ベーチェット病だそうです。若いわが子を失った父親の慟哭はいかばかりかと胸が痛みます。墓碑銘には「父であり友であった大平正芳」と刻まれているそうです。
日中国交の影の功労者が岡崎嘉平太。名言は「信はたて糸 愛はよこ糸 織り成せ人の世を美しく」外交の要諦でしょうか、今の政治家に聞かせたいですね。信頼と愛情の大切さを実感します。(家庭でも!?)
中国と言えば毛沢東。「創造的仕事をなしとげる3つの条件は、若いこと、貧乏であること、無名であること、だ」これはご自身の偉大な体験からくる名言でしょうか?命日は9月9日。哲学者だったとは知りませんでした。
「健康第一、学問第二」特に健康第一をこれから実践していきます。
ページをめくるごとに名言、至言、警句に溢れ感想も尽きませんが、人生の第4コーナーを豊かに過ごすために、日常生活で活用でき実践できそうな名言に少し的を絞ってみます。最近の趣味は、映画や、絵画、伝統芸能の鑑賞です。
(昨日も国立能楽堂で梅若玄祥さんの現代能―マリーアントワネットーを鑑賞)そこでピッタリの名言がありました。「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」2月9日が命日の手塚治虫です。しょぼくれて生きるな、もっと堂々と生きよ!と勇気づけられる名言ですね。「悩んだら81ページ」を開くこと!!手塚治虫教の信者になります。
ヒルトンとダ―ウィンには共通した生き方があると感じます。成功する人は動き続け、生き延びるのは「変化」できる者だ! アラウンド古希ではもう遅いかなあ?!他にというと失礼だが「オシャレをしなくなった日から老いが始まる」(曻地三郎)「書物よりも、生きた人間から受けた影響の方が、ずっと大きい」(田山花袋)「きのうも明日もないわ。今日をしっかり生きるだけ」(杉村春子)
実践しやすく身近に感じる名言も多く心強いです!
一流の本を有り難うございました。座右の書にします。2017-12-13
中津北高 同級生 松田俊秀
------------------------------------------ 「名言との対話」12月13日。大谷竹次郎「わが刻はすべて演劇」
大谷 竹次郎(おおたにたけじろう 1877年12月13日-1969年12月29日)は兄・白井松次郎とともに松竹を創業した日本の実業家。
小学校卒。13才、九代目団十郎に感激し演劇事業への夢を持つ。25才、明治座の座主、松竹剛明。27才、代表社員。33才、東京は竹次郎、大阪は松次郎の体制。46才、関東大震災で映画館22館を失う。48才、松竹キネマ:社長は松次郎、専務が竹次郎。78才、文化勲章。85才、勲一等瑞宝章。この両賞をもらった芸能関係者は大谷のみ。
歌舞伎の保護者・大谷竹次郎は、挨拶・スピーチの名人だったと多くの人が回顧している。知仁勇の三徳を備えた人という評価もあったが、猜疑心と嫉妬心の強い人だったと回顧している人もいたのは面白い。
1877年生まれの白井松次郎(1951年74才で没)と大谷竹次郎(1969年、92才で没)という双子の兄弟が創立した「松竹」という会社の名前は、この兄弟の松と竹からとったものである。この二人は「東の大谷、西の白井」と並び称されていた。
銀座1丁目の松竹スクエア3階に松竹大谷図書館がある。松竹株式会社の生みの親・大谷竹次郎が1955年に文化勲章を受章したのを記念して1958年に開館した、演劇・映画専門図書館。演劇(歌舞伎・文楽・新派・商業演劇)、映画、日本舞踊、テレビ等に関する書籍、雑誌、台本、写真、プログラム、ポスターなどを収蔵しており、資料数は45万点にのぼる。ミニ展示「渥美清−−没後20年」展をみた。この図書館も経営が苦しいらしく、リストラを避けるために、クラウドファンディングで238名から287万8千円を集めたと貼り出してあった。
「私の事業的信念は、それが世に価値のあるものならば、数字的に自信がなくとも、正しく行えば成し遂げられるということである。」
「同じ事業をやるなら、人間は自分が好きな事業に手を出すべきだ。」
13歳から92歳まで、全生涯にわたって演劇に邁進した大谷竹次郎。「わが刻はすべて演劇」と言い切っているのはすがすがしい。こういう言葉を吐けるか?