11月25日は三島由紀夫にちなんだ「憂国忌」。

53年前の1970年の本日「11月25日」は三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入し割腹自殺をした日である。当時大学生で、三島のファンでもあった私は大きな衝撃を受けた。23歳年上の林房雄らによって、この日は「憂国忌」と名付けられた。

豊饒の海』が三島由紀夫の最後の作品で、その後三島は市谷の自衛隊に乱入し隊員に決起を促し自決する。三島のライフワークといわれた『豊饒の海』全四巻が出た当時の大学時代、優れた構想とまばゆい文章に彩られた世界に魅入られむさぼり読んだ記憶がある。輪廻という考え方を下敷きにした小説で、各巻の主人公は20歳で夭折する。第一巻の主人公清顕(きよたか)の友人の目でこの全四巻を通すのだが、この友人は清顕の生まれ変わりである男性や女性を見つめるというスタイルだ。二巻は「奔馬」(右翼的思想を持った剣士)、三巻は「暁の寺(タイの王女)、四巻は「天人五衰」で、最後に再び清顕の恋人で出家した聡子が登場するる物語の構成になっていたと記憶している。そしてこの輪廻転生が溶解する最後の不思議な瞬間も印象深かった。

三島の父が書いた『倅・三島由紀夫』には、「子供のときから夕日と富士山と海が好きでした」とある。そしてこの父も母も、ライフワークが完了した後の由紀夫の死を予感していた。

豊饒の海』の第一巻「春の雪」で舞台の一つとなった、旧前田侯爵邸の「鎌倉文学館」や、山中湖の「三島由紀夫文学館」を私は訪問している。また『金閣寺』などの小説や、『文化防衛論』そして『人間の性』『レター教室』などの軽いエッセイも読んできた。いくつか三島の名言をあげてみよう。「小説家は人間の心の井戸掘り人足のようなものである」「文章の最高の目標を、格調と気品に置いています」「私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを以て歩くと、自分の目をなくしてしまう」「性や愛に関する事柄は、結局万巻の書物によりよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです」などの言葉を思い出す。

しかし何といっても、最高傑作は、日本の将来に関する予言である。「日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」。半世紀を経て、その通りになったようである。

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「名言との対話」11月25日。ラーマ6世「チャクリー改革」

ラーマ6世タイ語รัชกาลที่ ๖ 1881年1月1日‐1925年11月25日は、チャクリー王朝の第6代のシャム国王

タイのチャクリー王朝は、ラーマ4世からラーマ5世、そしてラーマ6世という3代の一連の近代化改革で、国内での内戦の危機、英仏による植民地化の危機を乗り越えた。アジアで独立を保ったのは日本とタイだけであった。この改革はチャクリー改革と呼ばれている。

ラーマ5世は1868年に15歳で即位し、有力な副王、摂政の死後に王族による本格的な改革に着手する。

奴隷解放。王室専用学校の拡充と義務教育の導入。王室子弟の海外留学。軍隊の近代化。鉄道・道路、電話・電信・郵便、水道などのインフラ整備。地方行政の仕組みをあらため中央集権体制への移行。不平等条約の改正。まさに日本の明治維新の対比できる改革であった。

その改革を引き継ぎ近代化を成功させたのが、ラーマ6世である。イギリスのオックスフォード大学で教育を受けたラーマ6世は、改革を断行している。

制度改革では、義務教育、姓氏放。仏暦、多妻制廃止など。インフラでは、発電所、水道、空港、橋などを整備した。英仏への多量の留学生の送り出し。タイ赤十字社の設置、ボーイスカウトの早期導入、タイ語の語彙の豊富化、、。外交では、第一次世界大戦に参加。国際連盟に加入。

ラーマ6世は文学者でもあった。200以上の文学作品を書き、英仏の書物の翻訳も行っている。劇作家でもあった。「東洋のユダヤ人」という論文を書き、従来の華人優遇策を改めた。

ラーマ6世の治世は1910年から1925年まで続き、5世の治世が始まった1868年から数えると半世紀以上にわたり改革が続いたことになる。次のラーマ7世時代には、財政の破綻によって立憲革命を招来することになる。

いずれにしても、タイは東南アジア諸国のように欧米の植民地にならずに、近代化を成し遂げたことは奇跡のような快挙であると感じた。王室がいまなお、国民の信頼と尊敬を得ているのはこうした事情によるのであろう。