大学入試センター試験初日。

「副学長日誌・志塾の風」

大学入試センター試験初日。8時集合。

多摩大会場は、多摩大と駒沢女子大の混合チーム。

冒頭の主催者挨拶は私の担当。19時半まで。

 

 

「名言との対話」1月13日。坂田道太「むしろ素人の方がよい」

坂田 道太(さかた みちた、1916年7月18日 - 2004年1月13日)は、日本の政治家。

1960年代末の大学紛争の渦中に文部大臣となり、前代未聞の1969年の東大入試中止の決断を下した人物である。当時受験生でこの騒動に巻き込まれた私は、丸眼鏡で文学青年風のこの大臣の顔をよく覚えている。坂田はこれを「最大の痛恨事」と回想している。

坂田は29歳で衆議院議員に初当選し、以降73歳で引退するまで17期議員をつとめている。岸内閣の厚生大臣、佐藤内閣の文部大臣、三木内閣の防衛庁長官、鈴木内閣の法務大臣、そして衆議院議長などの役職をつとめている。

もともとは文教族であり、まわってきた防衛庁長官は素人であったのだが、猛烈に勉強して、防衛庁長官在職日数は747日。これは最長在任記録だ。教育者的防衛庁長官であった。トップの役割の一つは教育である。その素人の坂田の作成した「防衛計画の大綱」は戦後日本の防衛政策史上の不朽の名作となった。三木おろしの時には「防衛庁長官は三自衛隊の長に殉じる」と中立の立場をとった。

「三角大中福」が総理を担うサイクルが一巡し、ニューリーダーの一角の竹下の内閣がスキャンダルで崩壊した後、自民党伊東正義と無派閥の坂田道太に総理を打診する。伊藤は拒否、そして坂田も要請も断っている。「国権の最高機関」である立法府の議長経験者が総理になるのは三権分立の原則上好ましくないという理由が一つ。総理の後に議長になることはあってもその逆はあるべきでないこと。また政界引退の決意を表明していたという出処進退の決断があったからである。

政界引退後にNHK「日曜討論」で森首相から「亡くなられた坂田さん、、」と物故者扱いにされ、妻から「あなた、死んだわよ」といわれ、坂田は「そうか」と笑って受け流したそうである。

ある時から以降は「人が先、自分は後」とよく揮毫している。

混乱した現場の立直しのために、難しい役職、不案内な仕事をすることになったとき、大事なことは公平率直な目で、偏見を持たずに複雑骨折した問題にあたることである。それを坂田は「むしろ素人の方がよい」と表現したのであろう。専門家集団が苦しんでいるとき、細部からではなく、大づかみで実状を把握し、問題解決にあたっていくことも一つの道である。この坂田道太の考えに共感する。

(参考:佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい』(新潮選書))