巨人・筒井康隆---その全貌と正体

世田谷文学館の「筒井康隆展」。

小学校時代にIQ187で特別クラスに入れられる。同志社大学舞楽芸術学専攻に入学し、同志社小劇場に入部。21歳、青猫座の新人として「東の仲谷昇、西の筒井康隆」と新聞に書かれる。卒業後、野村工芸社に入社。

26歳、「作家になろう」と決意し、同人誌「NULL」を創刊、翌年退社。29歳で結婚、仲人は小松左京。1968年、34歳で1月「ベトナム観光公社」で直木賞候補、続いて7月「アフリカの爆弾」でも直木賞候補となるが、落選。これ以降、間断なく書籍を刊行していく。2018年現在で84歳になるが、この間の書籍出版は300冊を軽く超えている。

文学館の一階で関西テレビの人気番組「ビーパップ・ハイスクール」の600回記念の「筒井康隆の正体」が流れていた。「面白がることの天才」(直木賞三度落選もパロディー化)、「世代を超える」」(「時をかける少女」は国民文学)、「未来の予言者」(「48億の妄想」)、「小説の垣根を取りはらった」(マンガ、実験小説)と分析していた。この巨人の正体をよく説明している。この番組には私も二度出演したことがあり、レギュラーの筒井さんとは言葉を交わしたことがある。私のコメントに対して「面白かったですよ」と言っていただいた。筒井康隆は2005年からずっと出演しているが、テレビの中では行き詰まった感のあるときに若い漫才師たちとの交流で刺激を受けたと語っていた。70代に入ってややマンネリになっていたのだろうか。筒井康隆の「中年の危機」は、全く世界の違う、若い人たちとの交流と刺激で克服したのかも知れない。

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筒井康隆『創作の極意と掟』から。

・小説を書こう、あるいは小説家になろうと決めた時から、その人の書くものには凄みが生じる筈である。小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある。

・蘊蓄と情報の違いは、作者がそれとどれだけ長期にわたり情熱をもってかかわりあってきたかどうかにかかっている。

・文体というものは作品内容に奉仕するものである。、、、小生の場合、作品によって文体を変えている。

・登場人物が多ければ多いほど物語は必ず大きくなる。

・酔っ払って原稿を書くことだけは控えている。

この本では、ヘミングウェイがたびたび登場する。ヘミングウェイの乾いた文体に大きな影響を受けたようだ。乾いた文体で、一人称で書く。ヘミングウェイの文章を手本としてるうちに書けるようになったのだ。

小説家の幸福について簡単に書いている。ここに本音も入っている。

「食通と思われ、料理店ではいい席に案内され、料理も旨い。、、気難しいと思われ、だいたいは丁重に扱われる。社会的発言力ができた。多少の非常識が許して貰える。我儘を言うと喜ばれることがある。本が無料で贈呈されてくる。映画の試写会や芝居に招待される。編集者を通じて偉い人や専門家に取材ができる。夜更かし、朝寝坊をいくらしてもいい。作家同士の交際ができ、小説に関する知識がどんどん増える。厄介な資料集めを編集者がやってくれる。ラフな服装でどこぬでも行ける。背広を着なくていい。莫迦なこと言っても笑われず感心される。自分をいじめた連中を見返してやれる。自分を莫迦にした奴らを莫迦にできる。いい着想がなくてもその時の大事件を作品に書いても、かえって話題になり評判がよい。見知らぬ人とも話ができる。家族から尊敬される。そして何と言ってもプロの小説家になれたのだという満足感。、、、」

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筒井康隆作品マップ」(平石滋)という図がある。この企画展の本の中にあるから、筒井本人も了解しているのだろう。この巨人の全体像が一望できる図解だ。

SFが中心にある。ナンセンス、ブラックユーモア、エロ、グロ、ピカレスク、ファンタジー、リリカル、ジュブナイル、童話・ライトノベル、ホラー、歴史小説、音楽、mステリー、実験小説、言語実験小説、メタフィクション、新傾向、純文学、風刺、パロディ、スラップスティック、と分類されて、それぞれの代表作が並べている。

 

創作の極意と掟 (講談社文庫)

創作の極意と掟 (講談社文庫)

 
読書の極意と掟 (講談社文庫)

読書の極意と掟 (講談社文庫)

 

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大学

・研究室

・杉田学部長

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「名言との対話」10月9日。飯沢匡「元気におやりなさい。元気に」

飯沢 匡(いいざわ ただす、1909年7月23日 - 1994年10月9日)は、日本の劇作家演出家小説家

父は台湾総督をつとめた伊澤多喜男。伯父の伊沢修二は有名な文部官僚で吃音矯正教育に貢献した人物。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。台湾に記念館がある。弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。その人の血を引いているのだ。

本名は伊澤 紀(いざわただす)。朝日新聞社在職中、上司に隠れてNHKラジオのために台本を書いた際、アルバイトが露見しないようNHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえるという名を考えてください」と頼んだところ飯沢匡と勝手に命名されたものだそうだ。

1943年「再会」でNHKラジオ賞、1944年「鳥獣合戦」を初演。勤務先では、戦後『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を務めた。1954年退社。同年、文学座初演の「二号」で第一回岸田演劇賞、『ヘンゼルとグレーテル』でサンケイ児童出版文化賞1957年NHK放送文化賞、1968年『五人のモヨノ』で読売文学賞、1969年「みんなのカーリ」で斎田喬戯曲賞、1970年「もう一人のヒト」で小野宮吉戯曲平和賞、1973年紀伊国屋演劇賞受賞、1979年「夜の笑い」の脚本・演出で毎日芸術賞1983年日本芸術院会員。こうした劇作家としての業績以外にも、直木賞候補となる小説も書いている多才の人であった。

今回、『飯沢匡の社会望遠鏡』(講談社)を読んだ。1975年から4年間『小説新潮』に連載したエッセイをまとめた時評だが、ロッキード事件を中心に世相を鋭い批判的なタッチで書いている。田中角栄の「法は解釈である」の行く末、芸道家と芸術家、民放とは自民党の民、専門家の情報源、麻酔銃のすすめ、独裁者と道徳、チャプリンの慧眼、ノンポリの吸収、、、、など、今でも通用する警世の書になっている。

冒頭の「元気」は「ヤン坊ニン坊トン坊」以来師弟関係にある黒柳徹子が、台本をどう演じればよいかを聞いた時の回答だ。後に、黒柳は「どんなに才能があっても、結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです」と述懐している。健康を土台にした体力と精神の元気さが、才能の芽を育て、大きく開花させる。