三島と沼津を堪能ーー源兵衛川。箱根の里。井上靖文学館。ベルナール・ビュフェ。ジュリア―ノ・ヴァンジ。沼津御用邸。

富士箱根伊豆国際学会の仲間たちに案内してもらって、三島と沼津を堪能しました。

スマホの万歩計で、2万歩になりました。

目的の「記念館」は井上靖(小説家)、ベルナール・ビュフェ(具象画家)、ジュリア―ノ・ヴァンジ(彫刻家)を、鈴木太夢さん、遠藤忠男さんに案内してもらて訪問しました。現地の知識人の解説付きで楽しむことができました。詳しくはそれぞれ別途書く予定。

 

6時過ぎから源兵衛川沿いを歩く1時間半の気持ちのいい散歩。1万歩。

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三島大社を参拝。
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箱根の里。有効活用を探る。
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クレマチスの丘で3つの人物記念館を訪問。

井上靖文学館。「命をかける価値は、自分を表現することしかない」
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ベルナール・ビュフェ美術館。「私は絵を描くことしか知らない」
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ヴァンジ彫刻庭園美術館。「全ての人に石が要る」
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昼食は沼津の「弥次方喜多」。

 

沼津御用邸記念公園。令和の学問所に?
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東館の学問所

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利休の待庵(写し)

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御用邸の海

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「名言との対話」11月14日。南條範夫「文化的遺産はすべて、それをめぐる人とのかかわり合いにおいてこそ、後世の人々の心をより強く打つものなのだ」


南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家、経済学者。享年95。

東京市出身。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。経済学者と小説家の二刀流の生涯を送った人である。

中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業し助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。1940年東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師、1941年日本出版文化協会海外課長、企画課長、1943年上海で法幣の価値維持工作に従事、1944年三井本社研究室次長、1946年日本経済再建委員会常務理事、1949年國學院大學政経学部教授。1951年都市不燃化同盟常務理事。1952年から立正大学教授。1956年首都圏整備委員会専門委員。大学では、金融論、銀行論、貨幣論の講座を担当していた。 

小説家への道は42歳あたりからだ。1950年に『週刊朝日』の懸賞小説朝日文芸賞に応募して入選。1952年に『サンデー毎日』の懸賞小説に入選。1952年に初めて書いた歴史物「子守の殿」で第1回オール讀物新人杯を受賞。1952年『サンデー毎日』で「『あやつり組』由来記」で入選、千葉賞で佳作。1953年から1954年にかけて「子守の殿」「不運功名譚」「水妖記」「畏れ多くも将軍家」で直木賞候補となる。そして1956年に「灯台鬼」で直木賞を受賞し一躍人気作家となり、時代小説、歴史小説を数多く執筆した。経済団体の仕事はやめたが、国學院大学と中央大学で教壇に立つことだけは続けている。 

1979年に國學院大学を定年退官となった70歳以後は、小説執筆に専念する。長編小説を1年1作書き下ろすスタイルを確立した。第1作「細香日記」で吉川英治文学賞を受賞した。その後は、90歳で書き下ろし長編『一十郎とお蘭さま』を発表するなど、高齢となっても執筆を続けている。亡くなったのは95歳であったから、四半世紀の長きにわたって小説を中心とした執筆に命をそそいだ生涯であった。

『古城秘話』を読んだ。城をめぐる32の物語が達者な腕さばきで、読ませる。それぞれの物語の最後は、南條の感慨や、余韻のある言葉で締めくくられている。「鹿児島城の隠密」では、「蘇鉄の根元を掘ると、鹿児島場内の精密な見取図が出てきたという」。「鳥取城の生き地獄」では、「カユを余りに急いで多量に喰い過ぎたため死亡したものが九十二名にあがったという」。「宇都宮城の釣り天井」では、「権勢の地位にある者はにとって、その同僚は、いつでも敵になる怖れのある政敵であることを、正純は忘れていたらしい」。「江戸城の白骨」では、「そこに埋没された八個の人体が、三世紀後に掘り出されよいと誰が予測しえただろう」。「岡山城の後家」。無能な八郎秀家が四十七万石を与えられ。五大老の一人にまでなったのは、後家お福の力だったといってよい」。そして「戦わざる巨城」では、「江戸市民のためには悦ぶべきことであったろうが、城の歴史としては甚だ物足りない感じがしないでもない」とある。

代表作は『武士道残酷物語』だろうか。この作品は映画になっており、随分と前に話題になった時私もみている。この映画の最後は、現在企業のビジネスマンが残酷な目に合うという身につまされるストーリーだった。

南條範夫は、小説以外にも、歴史的知識を生かして、史実・説話・伝承にもとづく「史伝」も書いている。史伝という表現形式は、歴史上の事実に基づいて書かれた伝記でりあり、今日では歴史ノンフィクションという言い方になっている。事件などもテーマになるが、人物に焦点をあわせた史伝は、人物評伝なのである。

史伝には、時系列の編年スタイルと列伝スタイルがある。この列伝の名手は森鴎外海音寺潮五郎などがいる。南條は史伝文学の復興という望みを持っていたようで、『武将列伝』『悪人列伝』『大名廃絶録』『武家盛衰記』などの名作がある。

説話や伝承を紹介しながら、解説や会話文を交えて読む面白さは史伝にはある。本業は経済学の大学教授であり、趣味から副業になっていた副業の小説の執筆が、いつか本業になっていった人である。

歴史遺産、文化財と呼ばれるモノたちは、それ自体のもつ魅力もあるが、それに関わった人々の生涯、志、執念、無念などのエピソードと相まって、魅力が一段と増すのである。冒頭の南條範夫の言葉はそのことを教えてくれる。