「町田市民文学館ことばらんど」で開催中の「みつはしちかこ展」。
『小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』などで有名な漫画家。小学3年、菜瀬川町子の『さざえさん』に憧れ、漫画家を目指す。21歳、「小さな恋の物語」でデビュー。1972年から2012年まで町田市玉川学園に住む。
チッチとサリーの『小さな恋のものがたり』は、1962年以降続くロングセラー。1980年から朝日新聞日曜版に連載された『ハーイあっこです』は『小さな恋のものがたり』と並ぶ代表作で、明るく朗らかな主婦とその家族の日常を描いた作品として、22年間にわたる長期連載。両作品ともテレビでドラマ化、アニメ化された。
「自分が経験したことしか描けない」。「私がずっと歩いてきた野の花の一本道は、そのまま未来につながっている」
1977年、『小さな恋のものがたり』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。2015年、手塚治虫文化賞特別賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。
67歳、急病ですべての連載を休筆。うつ病を発症。69歳、夫が急逝、心不全で入院。後遺症で手が震えるようになる。このため制作方法を変える。2011年に『チッチとサリー』第42集が完成する。「雨の中でダンスダンス」が信条。
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・多摩信用金庫の八木理事長と長島部長来訪。杉田学部長と応接。
・学長室・渡辺さん:戦略会議
・初見先生:ゼミ
・高野課長:情報交換
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「名言との対話」10月22日。坂田栄男「少しでも越えがたい記録を作っておくことが、先の時代を生きた者が後の世代に遺す贈物であると信じます」
坂田 栄男 (さかた えいお 1920年(大正9年)2月15日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、囲碁棋士。
1951年に獲得した第1期日本棋院最高段者トーナメントのタイトル以来、生涯獲得タイトルは64。挑戦手合いと化粧で敗れたのが28回。1961年は本因坊、王座、日本棋院、最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る。1964年、43歳で本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇。1972年から1973年にかけては4つのタイトルを保持して「第二の黄金期」を築く。1978年、59歳で名人位に戦者するが敗れる。日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた。80歳をもって引退する。囲碁を知らない私でもその高名はよく知っている。
「カミソリ坂田」を代表に、「シノギの坂田」「なまくら坂田」「攻めの坂田」「大坂田」などの異名を持つことからわかるよに魅力的な棋士だった。親友の近藤啓太郎は坂田をモデルにした小説「馬鹿な神様」、『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』を書いている。
「勝負は時の運などというように、力だけでは勝てない時もある。しかし、普段から努力してコツコツと実力をつけていくことがまず最初に必要なことだ。実力が本当に十分発揮できるとき、それを波とかツキとか呼ぶのだと私は考える」「本当に強いとは、ここ一番の大勝負に必ず勝つことなんだ」
45歳の坂田名人に23歳の林海峰が七番勝負を挑み、勝った事件がある。その林海峰は「藤沢秀行先生は、その時々の大きなタイトル一本に絞ってくる印象でしたが、坂田先生はあらゆる棋戦に全力投球、「ぜんぶ勝つ」というすごみがありました」と 勝負への執念を語って悼んでいる。
タイトル歴を眺めると、木谷実、高川格、藤沢秀行、林海峰、石田芳夫などのライバルと熱戦を繰り広げ、31歳から63歳まで間断なく何かのタイトルをとり続けている姿に驚きを禁じ得ない。冒頭の記録に関する坂田の言葉は『炎の勝負師 坂田栄男 第3巻 栄光の軌跡』の「はしがき」にある。「記録」を大切にした真意は歴史の継続と進歩にあったのである。坂田栄男は「80歳現役時代」のモデルかも知れない。