座間市の高齢者学級「あすなろ大学」。図解テキストの通信教育の録音とり。佐藤慶太郎と美術館。

11時:座間市の高齢者学級「あすなろ大学」の市の担当者と代表の方が講演依頼に見えた。 30年続いていて「座間モデル」と言われるほど素晴らしい内容の会だ。毎年200人が登録。調べ学習がテーマ。男性が中心。

  asunarodaigaku.main.jp   

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「この度、久恒先生に、あすなろ大学が毎年実施しております「大学展」での特別講演をお願いいたしたく、ご連絡を差し上げた次第でございます。8月7日の「自分史まつり」での久恒先生のご講演を拝聴させていただき、まさに「人生百年時代」に向け、シニアの方々が楽しく、生き生きと、主体となってその学習成果を発表する大学展のテーマにぴったりと感じ、ぜひともあすなろ大学の方々に聞いていただきたいと強く感じました。また、ご講演はあすなろ大学の大学生だけではなく、これから生涯学習の場を探し、一歩踏み出そうとしているシニアの方々もお迎え致します。ぜひとも、「自分史まつり」でご講演していただいた内容をベースにご講演いただき、座間市のシニア世代の方々の生涯学習を勇気づけていただき、そして、自分史の魅力をお伝えしていただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。あすなろ大学は現在、「大航海ゼミナール」という「調べ学習」を学習活動の柱に据えており、受講生が主体的に企画管理発信していますホームページ活動も活発です。久恒先生の「自分史」「図解」「HP」というキーワードは、とても関係が深い高齢者学級であります。」

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15時:神田のN社を訪問。図解テキストの通信教育の録音とり。終了後、力丸君と打ち合わせ。

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今日の収穫。東京新聞日経新聞

東京都美術館:日本最初の公立美術館。「石炭の神様」と呼ばれた九州の実業家・佐藤慶太郎の篤志で実現した。東京府美術館(現・東京都美術館)の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識があった東京府知事阿部浩に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。これにより、岡倉天心や横山大観らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲願が実現することとなった。

佐藤 慶太郎(さとう けいたろう、1868年11月22日明治元年10月9日〉 – 1940年昭和15年1月17日)は、福岡県出身の実業家

佐藤は若いころに読んだアメリカの実業家カーネギーの伝記に感銘を受け、カーネギーの言葉「富んだまま死ぬのは不名誉なことだ」( The man who dies rich, dies disgraced )を信条としていた。1935年、寄付金150万円により、財団法人大日本生活協会を設立。衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究をやり実験設備として生活訓練所、児童研究所、模範部落建設、教育機関 を通じて新生活指導者を養成するほか新興生活実行組合を全国に作るという大掛りな構想を発表した。その拠点として1937年に「佐藤新興生活館」(現・山の上ホテル本館)を建設した。

また、貧困により医薬が購入できない人への救済組織として「財団法人若松救療会」などを設置したり、「福岡農士学校」開設にも協力するなど、「美しい生活とは何か」を希求し続け、食生活や農村の改善、女子教育の向上にも尽力した。優秀な若者には奨学金を提供し、先見性のある医師や社会活動家に支援を惜しまず、日本の芸術文化と生活文化の双方に寄与した。その社会奉仕の功績を顕彰し、その精神を未来に継承する芸術文化活動や生活文化活動を奨励しようという「佐藤慶太郎顕彰会」が齊藤泰嘉筑波大学教授らにより設立されている。 どこかで聞いた名前だと思ったら、別府市美術館をつくった人だった。2013年9月1日に訪れている。石炭の神様と呼ばれた佐藤慶太郎の寄付金をもとに1950年に設立された。この美術館の佐藤の肖像画は、岡田三郎助。胸像は、朝倉文夫。佐藤は温泉地である大分県別府市に移住、晩年を同地で過ごしている。

渋谷ヒカリエ「CUBE 1、2、3」:版画家、斎藤清。日本のピカソ。「ハニワ」。斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 1997年11月14日)は、福島県河沼郡会津坂下町出身の木版画家文化功労者(1995年)。独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に魅せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。
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「名言との対話」12月11日。三輪壽雪「健康第一。体調は作品に表れるので、体調の悪いときにいくら頑張っても良いものはできん。健康は基本じゃ」

 三輪壽雪(みわ じゅせつ 1910年2月4日 - 2012年12月11日)は日本の陶芸家。享年102。

山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。 旧制萩中学校卒業後、兄・十代休雪を助けながら伝統技法を学ぶ。1941年川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込む。

1955年に作家活動を開始。1957年日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し、1960年には日本工芸会正会員になるなど、高い評価を受けた。萩焼の伝統的な茶陶の作風に新たな展開を示した。純白の藁灰釉による「休雪白」の作品を発表している。1967年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。1976年紫綬褒章1982年には勲四等瑞宝章を受章、1983年4月13日に重要無形文化財萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙だ。

近代萩焼の革新者であり、それまで注目されなかった桃山時代の雄渾なスタイルを現代に甦らせることで、現在美術としての萩焼を創出させた。美濃焼における荒川豊蔵唐津焼における中里無庵、あるいは備前焼における金重陶陽らに、匹敵する人である。

「若い連中がまねしてやろうという根性になってはだめ。自分の仕事の力になるように受け止めないと」

全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。2012年12月11日、老衰のため死去。102歳没。百寿(100歳)の上もあることが今回わかった。茶寿(108歳)、皇寿 (111歳)、大還暦(120歳)。三輪壽雪は胃腸が悪く、長生きしようと自分で健康法を編み出して実践した。4時半に起床し、体操と全身マッサージを1時間半。その後、無農薬野菜をつくる畑仕事を1時間。冷水を2杯飲んで朝食。就寝は9時半。 体が弱かったことが、かえって長生きにつながった。体調管理はどのような分野でもいい仕事をするための基本である。

三輪壽雪は「不器用は、不器用なりに。茶碗の場合はの。器用すぎてもいかんのじゃ、これは。茶碗の場合はの。器用すぎるほど、土が伸びてしまっていかんのじゃ。やっぱし技術的には稚拙なところが、多少はあるほうが茶陶、茶碗としては、好ましい雰囲気のものになるわけじゃ」と不器用を克服し、健康第一の心がけで百寿の名人になった人だ。30年の修業期間を経ての45歳からの作家活動は遅いと見えるが、100歳を超えるまで半世紀以上の時間があったことになる。この人も遅咲きといえる。