- 田淵俊夫。1941年生。「傑作は次の絵」。「春萌ゆ」はインド・スリナガルの柳の木の芽の風景が一番印象深い。平山郁夫に師事。1972年から2年間、「中央公論」表紙絵。東京芸大副学長。日本美術院理事長2017年、奈良薬師寺食堂に本尊の阿弥陀三尊浄土図。2019年文化功労者。
- 第1回堀文子収蔵作品セレクション展。1918年生、2019年2月5日死去。享年100。成川美術館には100点を超える堀文子コレクションがある。「何かをやっている人というのは、それが運命なんですね。好きだから、などというものではない。私もただこの道を行く方がいいという予感があっただけ。六十を超えて、ようやくそのことがわかってきた気がします」
- 小笠原元。1954年生。画壇の直木賞といわれる山種美術館賞優秀賞を1991年に受賞。大賞は芥川賞。
ポーラ美術館「シュールレアリスム」
アンドレ・ブルトン(フランスの詩人。1896-1966))。第一世界大戦を経験し大量破壊兵器に疑問。近代合理主義に疑問。超現実を表現する新たな美意識を提唱する。1924年「シュールレアリスム宣言」。エルンスト(ドイツのダダ運動。1891-1976))、ダリ(スペイン。1904-1980))とシュールレアリスム運動。オートマティスム(自動記述)を発明。「美は痙攣的なもんだろう。さもなくば存在しない」。ダリ「知覚された現実性」を妄想によって変形し別の意味を生じさせ、無意識の世界に眠る像を表出させよう」。日本には1960年代に福沢一郎、古賀春江らが入れたが、幻想的な絵画になってしまった。
ポーラ美術館をつくった鈴木常司の像をみつけた。
鈴木常司「美と健康の事業を通じて、豊かで平和な社会の繁栄と文化の向上に寄与する」
展示美術品の質と量に驚いた。アンリ・ルソー展を観た後、各展示室を見て回ったことがあるが、著名な西洋画家のよく知られている作品が次々と現れていく様は圧巻である。驚きの中でこの美術館は誰がつくったのか、という疑問が湧いた。その人物は、鈴木常司だった。化粧品の分野で確固たる地位を占めるポーラ・オルビスグループのオーナーである。
40数年に亘るというから20代から始めた筋金入りの収集は、西洋絵画、日本洋画、日本画、版画、彫刻、東洋磁器、日本の近代陶器、ガラス工芸、そして古今東西の化粧道具など総数は9500点で、中心は西洋近代絵画400点だ。このコレクションの特徴は、恣意的に集めたものではなく、しっかりした構想のもとに体系的に集められたものであることである。だから絵画の歴史の流れを実感できるようになっている。
1976年発足のポーラ研究所は、「美と文化」、とくに「化粧」についての総合研究所である。収集した化粧道具は6700点、関連蔵書は13000冊。
1979年発足の財団法人ポーラ伝統文化振興財団は、日本の優れた伝統工芸、伝統芸能、民俗芸能・行事などの無形文化財を記録・保存・振興・普及を目的としている。
1996年に発足した財団法人ポーラ美術振興財団は、若手芸術家、美術館職員に対する女性、美術に関する国際交流の推進を実施している。
そういった流れの中から、2002年にこのポーラ美術館が誕生した。しかしこのとき既に鈴木は他界していた。
鈴木常司の「文化」に対する思い入れには尋常ならざるものがあると感じる。冒頭の言葉は企業理念であるが、その理念を体現すべく、本業に加えて文化活動にも精力的に取り組んだ。その鈴木常司の人生の総括がポーラ美術館である。
箱根ハイランドホテル泊。
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「名言との対話」3月14日。堀口大学「日本語の美しさが身にしみる」
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年(明治25年)1月8日 - 1981年(昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。
東京・本郷生れ。 大學という名前は出生時に父が帝大の学生であったことなどに由来。創作詩作や、訳詩集の名翻訳により、昭和の詩壇、文壇に多大な影響を与えた。1970年文化功労者。1979年文化勲章受章。
17歳。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に通う。生涯の友・佐藤春夫と出会う。一高入試に2人とも失敗し、永井荷風が文学部長をつとめており、小山内薫、野口米次郎、戸川秋骨らが教授陣いた慶応義塾大学文学部に一緒に入る。外交官の父から任地に呼ばれて、慶應を中退し、メキシコ、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。画家のマリーローランサンや詩人のジャン・コクトーらとの交友があった。
ブラジルにいた1919年に創作詩集『月光とピエロ』を出し、帰国後の1925年には佐藤春夫に献辞を捧げた訳詩集『月下の一群』を刊行する。甘美な作風で、中原中也や三好達治など若い文学者たちに多大な影響を与えた。
「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」。「雨の日は、雨を愛そう、風の日は、風を好もう、晴れた日は、散歩しよう、貧しくば、心に富もう」
官能的な詩も多い。「拷問」というタイトルの詩、「お前の足元にひざまいて 何と拷問がやさしいことだ 愛する女よ 残酷であれ お前の曲線は私を息詰まらせる ああ 幸福に私は死にそうだ」。「帯」というタイトルの詩、「白鳥の歌は 死ぬ時。花火のひとみは 消える時。あなたの帯は 解ける時」。
1935年には島崎藤村が会長の日本ペンクラブの副会長に推される。堀口大学はの仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、実に300点を超えている。堀口大學全集 全9巻+補巻3+別巻1 が1981年-88年に刊行され、日本図書センターが2001年に復刻している。
10代から1964年に佐藤が亡くなるまで堀口と佐藤の二人の友情は続いた。堀口は友人代表で以下の挽歌を捧げている。
忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死に顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉じてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを
同い年の佐藤春夫は、二人を一卵性双生児と書き、挽歌で堀口大学はシャム兄弟と詠った。佐藤春夫の死から17年後に堀口は89歳で亡くなるのだが、NHK「あの人に会いたい」の最晩年の映像では、「日本語の美しさが本当に身に染みる」と語っている。外国語に堪能であった堀口大学は、翻訳を通じて日本語の美しさにほれ込み、そしてその美しさをさらに高めた人である。