雨の日、読みかけの本を読み進める。

土砂降りの日。読みかけの本を読み進めた。『梅棹忠夫著作集 第22巻』。山崎史郎『人口減少と社会保障』(中公新書)。玉木正之虫明亜呂無 時さえ忘れて』。

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息子とその彼女が我が家を訪問。

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「名言との対話」6月15日、虫明亜呂無「これが私なのです、と言いきれるものを何でもよい、たったひとつでもよい、私は持ちあわせているだろうか」

虫明 亜呂無(むしあけ あろむ1923年9月11日 - 1991年6月15日)は、日本作家評論家随筆家翻訳家

文芸,映画,音楽などの評論に幅ひろく活躍。とくにスポーツ論に新境地をひらいた。著作に小説「シャガールの馬」、評論集「時さえ忘れて」など。早大卒。

『時さえ忘れて』(玉木正之編)では、ラグビー、ヨット、登山、スキー・ジャンプ、高校野球、ゴルフ、野球、サッカー、ボクシング、相撲、などについて優れた観察が紹介されている。

「ゴルフは、、サイコロジカル・スポーツと言うべきである」「サッカーの魅力はスピードである」「どちらが、それだけより忠実に、正確に、彼の自我に即し、自我を表現しているか。私はそれだけを見る。それだけがスピードと距離測定とフット・ワークとパンチに表現される。それがボクシングだ」「勝負とは、まったく別の領域に属する相撲の味が、彼(貴ノ花)によって、土俵を飾っていたのである」「百メートル競走。、、角度と走力を総合してみせるイメージのゆたかなランナーが、そのイメージにふさわしい体力とスピードとスタミナをもたっとき、はじめて勝つのです」「マラソンは呼吸と視覚とのコントロールからなりたっているスポーツです」「舞がわかる、といのは、一言でいえば、舞の呼吸がわかることである」

「スポーツというのは、煮つめて考えると、肉体と情念、生理と心理との争いからなりたつ遊戯であり、闘争であり、逸楽である」「フランスの小学生は、低学年から、哲学を勉強する。、、、人間は何を考え、何を感じ、何を美しいと思い、何を快いことと感じるのか、ということを学ぶわけである」

遊びは田植え祭から生まれた。歌い舞う人は「わざおぎ」だ。それが俳優である。身分の賤しい俳優たちは芝のはえた場所で歌い踊る。見物人もそこで見る。それが芝居である。東西の村で豊作を祈り相撲をとる。夕顔と葵の花かんざしをさした代表がとおるあぜ道を花道と呼んだ。仏教が入り、天国が理想化された。それが浮世で、いつの間にか憂世になる。憂世を忘れるために歌い踊る、それが風流踊りとなる。風流の思想は趣味と教養の世界をつくりだした。生理的昂揚をうながす官能の刺激がある。やがてここにスポーツの要素が加わってくる。

スポーツをみて文字で表現する。実に困難な作業だ。それを行い、完成させた作家が虫明亜呂無(本名)である。その虫明にも師匠がいた。植草甚一である。「先生はボクシングをとおして、スポーツとは何かという問題に、常に明快な解答をあたえてくださった」。

何も持ちあわせていない若き虫明亜呂無はサッカーやラグビーを脳裏に描く空想家だった。その源を涸らさぬために、実際の試合をひたむきに見にゆく、通う。そのたびに空想の絵の具の塗りが濃くなり、空白が埋まっていく。それが、優れたスポーツ論に結実した。山際淳司近藤隆夫沢木耕太郎二宮清純玉木正之、、などのスポーツ論客に影響を与えたのではないか。スポーツ分野の物書き、スポーツライターは先達・虫明亜呂無を必ずとおるであろう。 

時さえ忘れて (虫明亜呂無の本)

時さえ忘れて (虫明亜呂無の本)