今年最初の「幸福塾」ーー「ライフワーカー」の事例を紹介「渡辺京二・佐々敦行・林隆三・関川栄一郎・島田省吾・内館牧子」

今年最初の「幸福塾」。いつまで続くか、と考えていましたが、昨年1年間で20回以上続きました。

いよいよ「個人」の分野でライフワークに挑戦した人たちを取り上げます。本番です。具体的な事例を積み重ねていきたいと思います。

思想史家の渡辺京二。官僚の佐々敦行。俳優の林隆三。航空評論の関川栄一郎。新国劇の島田省吾。脚本家の内館牧子

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以下、塾生の学びから。

  • 本日もどうもありがとうございました。この「幸福塾」の魅力の一つは、自分が知らなかった人、知らなかった世界のことに出会えるということです。実は渡辺京二、関川栄一郎、島田正吾についてはほとんど無縁の状態でした。新国劇という言葉は聞いたことはあっても、実際のところどんなものか分かっていませんでした。魅力の二つ目は、知っている人でも、いろいろな人との関係性、時代背景、エピソードなどが分かって理解が深まるというところです。佐々淳行さんの本は読んだことがあり危機管理の第一人者ということは知っていましたが、戦後の様々な事件や行事をずっと挙げられ、その全ての警備に関わっていたというのは驚きでした。内館牧子さんは東京都教育委員でもありましたが、小学校のときの経験が相撲をライフワークとするきっかけになったことや、54歳で相撲の研究をするために大学院に入ったことには驚きました。内舘さんの場合は小学校の経験ですが、様々な人がそれぞれのきっかけでライフワークのテーマと出会っています。その出会い方も興味深いところです。新聞の文化欄などでもライフワークに取り組んでいる人や人生100年時代を前向きに生きている人が載ったりしますが、やはりそういう記事に着目するようになりました。次回もまた楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日の幸福塾、テーマは「ライフワーク」。さる11月9日に続く第2弾として6人の事例について久恒先生よりレクチュア頂きました。①渡辺京二(作家、評論家)「維新史」90歳からの挑戦「途中で終わっても、書けるところまで…」⇒欲張らず、取り組みの「質」にこだわる姿勢。②佐々淳行(警察・防衛官僚)日本に名だたる事件の幕僚を一手に担当、「危機管理」の名付け親、「悲観的に準備し、楽観的に対処せよ」⇒血刀を下げら裸馬に乗って単身敵陣へ乗り込んでいくような男、プロ。③林隆三(俳優)「宮沢賢治」両親は山形出身、東北育ち、方言に興味、津軽弁。④関川栄一郎(航空評論家)「日本の航空事故」⇒航空事故評論の第一人者、大著「日本の航空事故」(80部だけの発行部数、配布先を限定)。⑤島田省吾(新国劇俳優)「一人芝居」⇒解散した「新国劇」を後世に伝える為代表作を一人芝居化して1年1本上演。⑥内館牧子(脚本家、作家)「相撲」⇒寂しかった幼年時代ラジオ(相撲中継)が支えだった。いじめに遭い助けてくれた男性の体格が良かった、「相撲:男の世界」へのこだわりのきっかけ。床山、相撲記者目指すも断念し脚本家に。母親が「いい塩梅の齢だ、これから何でもできる」…ついに横綱審議委員に(横審の魔女、「品格」)。共通点として、1.一つの事へのこだわり 2.コツコツ取組みを継続 3.自他ともに認める第一人者として居場所を獲得 。またこれを支え続けた原動力は『好き』という気持ちではないかと考えました。とかく人生の節目に向かって、成果や名声、収入という、「目先の優劣」をとかく意識しがちですが、愚直にこだわり続けられる「自分の居場所」たるテーマを大切に転がし続けることこそが大事なのではないかと感じた次第です。さて、間もなくやってくる自らの節目期向けて、自分のテーマ探しやいかに。ワクワクを大切に今後も精進したいと思います。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
  • 本日もありがとうございました。ライフワーカーの方々のお話を伺いました。テレビで知っている方々、名前だけは知っている方々が多く、それぞれライフワークとなったいきさつなどのお話は、興味深かったです。渡辺京二さん『逝きし日の面影』の外国人の眼でみた江戸時代の日本人について、読んでみたいと思いました。90歳のときに、維新書を描くために数千冊資料を用意していて「途中で終わるだろう。書けるところまででもいいや」という生涯ライフワークに邁進しておられるお話が印象に残りました。
    他にも、佐々淳行さんの警備や防衛のものすごい担当の数々、林隆三さんの方言、関川栄一郎さんの航空の評論、島田省吾さんの一人芝居、内館牧子さんの相撲、みな個性あるライフワークばかりで、楽しくお話を伺いました。次回も楽しみです。
  • 2023年最初の幸福塾は最初から参加できたことをとても喜ばしく思います。何かライフワークを定めていきたい自分にとって、幸福塾とのご縁にただただ感謝申し上げます。
    本日ご紹介いただいたお一人お一人について、ライフワークに出会ったきっかけが千差万別でありました。軸を持って、目の前のことに無心になって取り組めば、どこかのタイミングでライフワークの方から私にやってくるのではないかと感じています。林隆三さんの「縁あるところで何かを決める」が、不思議と自分の心に響いています。 上記以外で印象に残ったお言葉を記します。渡辺京二さんの「途中で終わるだろう。書けるところまででいいや。」は、ゴールに到達することよりプロセスそのものを楽しまれているのではないかと思いました。佐々淳行さんの「自己管理ができないことは危機管理できないことと同じ」は、身に詰まされました。私自身が自己管理できているかどうかを見直す機会を設けようと思った次第です。
  • 久恒先生、みなさん、本日もありがとうございました。今年最初の幸福塾。これからのテーマは「ライフワーク」で、「個人」のライフワーカー、何かをちゃんとやった人を取り上げるとのこと。。1月も半月が過ぎ、今年の目標はどうするのか、または、立てた目標は進んでいるのか、といったことが少し頭をよぎる時期。そんな中、もっと広いスパンで捉えて、自分のライフワークは何?ということを改めて考えるきっかけとなりました。今回は6人の方「渡辺京二佐々淳行林隆三、関川栄一郎、島田省吾、内館牧子」を紹介いただきましたが、いずれもライフワークをし始めたのは人生の後半。きっかけは子どもの頃、大人になってから、仕事の延長など様々ですが、亡くなる直前まで続けておられました。自分のテーマをもった人の成果と言えば、Youtubeで久恒先生と松本龍二さんが配信されている「遅咲き偉人伝」でいろんな人が紹介されていますが、ここでも私が特に気になるのはきっかけや始めた時期です。それらを知ることで、「今からでも遅くない、何かやってみよう!」という気持ちになります。 渡辺京二氏が40歳で学びの道に立ったとか、島田省吾氏が80歳を超えてから一人芝居を始めたとか、内館牧子氏が57歳で修士になったなどの事実には、本当に驚きましたし、凄く励みになりました。私も、今が始める好機と思って、1年の目標だけではなくライフワークのテーマも考えてたいと思います。これからどんな方を紹介いただけるのか楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
  • 年初めての幸福塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回印象に残った内容は、歴史家の渡辺京二氏についてです。渡辺氏は40歳で学びの道に立ち、「まだ時間は残されている。」と言われ、その後、50年間も歴史家、評論家としてライフワークに取り組まれたことは素晴らしいと思いました。名著「逝きし世の面影」影は、外国人の目から見た江戸時代の庶民の生活の素晴らしさに触れた内容で、江戸時代は封建的な社会制度の中で困窮した生活に違いないと思っていた私の見方が変わるような内容だと思いました。まだ読んではいないのですが、ぜひ読んでみたいと思いました。その他、佐々淳行氏、林隆三氏、関川栄一郎氏、島田省吾氏、内館牧子氏の紹介があり、どの方の内容も、また皆さんの感想も共感できる興味深い内容でした。ありがとうございました・次回も楽しみにしております。
     
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    「名言との対話」1月18日。新渡戸十次郎「三本木原の開拓」
    新渡戸 十次郎(にとべ じゅうじろう 文政3年6月11日ー1820年7月20日)ー慶応3年12月24日1868年1月18日)は、江戸時代後期の盛岡藩士。
    新渡戸伝の次男。新渡戸稲造の父。陸奥盛岡藩士。安政2年から父とともに三本木原(青森県十和田市)の開拓にくわわり、その功によって登用され、勘定奉行、用人などを歴任。のち独断的であるとして同僚の非難をうけ、蟄居を命じられた。慶応3年12月24日死去。48歳。名は常訓。字は昭瑶。号は謙斎、受益堂。
    以上は、日本人名大辞典の記述である。簡単な記述であるが、その奥には壮大なドラマがある。
    現在、青森県有数のコメどころになっている十和田市の稲生川は、三本木原開拓によってできた人口の川である・火山灰台地の荒涼たる平原であった。南部盛岡藩士の新渡戸傳は、いつかこの三本木原の開拓をしようという志を持っていた。領内の開墾を手がけて成功し1848年に勘定奉行となる。「開拓のエキスパート」となったこの人は62歳の時にようやく三本木原御用掛となり工事に着手する。奥入瀬川から三本木原、三本木原から太平洋へ向かう
    川をつくる必要があった。途中、江戸詰めとなり、この指揮は息子の十次郎がとり、1859年に4年の歳月をかけて完成する。この川は藩主の命名により1860年に稲生町、稲生川、稲生橋となった。その後、第二次上水計画で水量を増やすための工事に着手するが、1867年に十次郎が亡くなり、新渡戸傳は孫の七郎とともに開拓にあたり、傳は藩の大参事となる。明治維新の混乱期で未完成となったが、国営事業として完成された。傳は78歳で逝去する。七郎は会津藩士が移民した斗南藩士の一部を三本木に移住させている。
    新渡戸十次郎は、父の構想を広げ、三本木の新町の雄大な都市計画にまで発展させた。区画整理、用水路、土地利用区分など近代都市計画の先駆的な計画であった。それが十和田市の中心街となっている。
    1862年に、十次郎の三男が生まれ、開拓地域で初めて収穫した稲に因んで稲之助と名付けられた。この子が後の新渡戸稲造である。
    2005年に岩手県花巻市の新渡戸記念館を訪問した。岩手県花巻市に清澄な風格の漂う念館である。新田開発に功績のあった新渡戸家を顕彰する記念館で、この中に稲造の業績も展示されている。新渡戸家は、傳、十次郎、七郎、そして世界で活躍した稲造という人材を輩出させている。だから新渡戸稲造記念館ではないのだ。山形の記念館が、阿部次郎記念館でなく、阿部記念館となっていたのと同じである。
    2015年に青森県の高校の進学指導教員の研修会で講演したときに、「森県十和田市にある新渡戸記念館が耐震性の問題から閉館されています。市の助成が受けられなくなる危機にあり、どうなるか心配です。新渡戸稲造は郷土の誇る偉人です。十和田の記念館は盛岡のものより素晴らしいと思います。先生はご訪問なさいましたか。花巻にも記念館があり、もしこの3つのいずれかが未訪問であれば、是非おいでくださいませ」という感想をもらったことがある。
    十和田市立新渡戸記念館のホームページを覗くと、子孫の新渡戸常憲(音楽評論家)が2021年1月1日付で「廃館取り壊し問題」の経緯と存続の決意を述べていた。最高裁までもつれており、市は明け渡しの提訴をしているようだ。この新渡戸常憲という人の写真をみると、花巻か十和田かははっきりしないが、どちらかの記念館で会話した記憶が蘇ってきた。稲造の孫だったような気がする。
    全国の人物記念館は、このような存続の問題に襲われている。その典型が新渡戸記念館をめぐる紛争だろう。
    新渡戸十次郎は、父の傳から受け継いで、その長男にも三本木原の開拓の大事業を受け継がせている。この事業は十次郎の計画どおりに、稲生川を太平洋岸まで到達させた。十次郎の三男が「稲」の字をもらい、新渡戸稲造として「われ太平洋の橋とならん」という志を実現している。稲造は「稲」という名前をもらった歴史を背負って世界にはばたいたのであろう。こういう大人物は一代ではできないのだと感銘を受ける。