南大沢の4年ぶりの都立大祭を見学。首都大学東京から元の東京都立大学に戻った大学。キャンパスは人であふれていた。
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私の父と同じ大正12年生まれ(1923年)は「学徒出陣」で記憶された世代だ。NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」は、10月はこの世代の人を連続して取り上げている。彼らの肉声を聴くことができた。
- 雨の中、神宮で行われた「出陣壮行会」で答辞を読んだ江橋慎四郎。「あの時代は間違っていた。当時は情報が統制されて真実を知る由は無かった。今の若者は自分たちと同じような過ちをしないで欲しい」。
- 学徒出陣で朝鮮にわたった安田武は、シベリア抑留後に帰国。「きけわだつみのこえ」を編集した。「自分たち戦中派が死んでいった無念さを残していかなければならない」と活動した。(わだつみは、海の神。学生時代にこの本を読んで涙した。)
- 医師の中村克郎は学徒出陣した兄・中村徳郎から託された日記を出版。戦争の悲劇を繰り返さないためいは無関心という心の外套を脱ぎすてなければならないと語っている。兄の暗い顔は忘れない。
「名言との対話」で取り上げた1923年生まれは、以下の人物。こういう人たちが父と同世代か。
加島祥造。三国連太郎。池波正太郎。桃井真。流政之。永井道雄。嶋中鵬二。大山康晴。鳳啓介。田村隆一。江頭匡一。遠藤周作。千宗室。永谷嘉男。鈴木清順。大山倍達。江見絹子。田英夫。海部八郎。森嶋通夫。猿谷要。三波春夫。渡辺美智雄。司馬遼太郎。西村震也。虫明亜呂無。中村秀一郎。下河辺淳。隆慶一郎。田淵節也。宮崎勇。外山滋比古。佐藤愛子。小林桂樹。利光松男。戸川猪佐武。西村晃。李登輝。
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「名言との対話」11月4日。秋山好古「若いころはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである。」
秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人・教育者。
松山市出身。好古の名は、論語の「述べて作らず、信じて古を好む」からとったものだ。古聖の道を信じているという意味である。
大阪師範学校を卒業し小学校の教師となる。1877年、18歳で陸軍士官学校に入校。陸軍騎兵として任官する。1885年、陸軍大学校を卒業し参謀本部勤務。1887年からフランスに留学し1891年帰国。1894年に日清戦争に従軍。1904年に日露戦争で騎兵第1旅団長として世界最強と言われたコサック隊と戦う。1916年陸軍大将。1920年教育総監。日本海海戦でロシのバルチック艦隊を破ったときの天才参謀の弟の秋山真之とともに、大きな功績があった。
戦時には家族へ 「先日弾丸カ唇ヲ擦過テ戦争ノ良記念ヲ残セリ、最早全治セリ」「父サンハシバラクブリニ一休ミサ」、「家財道具ヲ売リ飛ハシ鍬デモ買ツテ置ヒテ呉レ」、」こういうほほえましい手紙も書いている。
司馬遼太郎『坂の上の雲』で日露戦争時の活躍を知った。申し分のない軍歴を眺めると、教育分野に何度もついていることがわかる。陸軍士官学校馬術教官、陸軍乗馬学校校長、陸軍騎兵実施学校長、そして3長官の一人の教育総監である。陸軍に入る前は、小学校の教諭を選んでおり、退役後に郷里の松山に帰り、65歳で私立北予中学校の校長に就任したことでにわかるとおり、秋山好古の「志」は有為の人材を育てる「教育」にあったのだ。
北予中学の校長就任を請われて、「日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんぼでも奉職する」いい、郷里に戻った。名前貸しではなく、辞任まで一日もやすまず精励した。
秋山校長は「個人の独立による国家の独立。個人の生活の安定。個性の育成を教育目的とした。早朝から校門に立ち生徒に挨拶をする。教師の遅刻・欠勤時は、自らの責任であると代講した。生徒、教員の不祥事は校長の責任という考えであった。このことで北予中学は見違えるほどよくなり、全国に報道されるて、授業の定刻開始、定刻終了、教師の欠課もなくなった。こういった風潮は、戦後の新制高校に継承された。
今まで軍人としての功績しか知らなかったが、秋山好古は軍人出身者らしからぬリベラルな教育こそ、生涯の志だったのだ。福沢諭吉を尊敬していた。「日本騎兵の父」とまで呼ばれた軍人・秋山好古にとって、校長職は、元帥にまさる人生最高の位であったのだ。
「男子に美醜は無用」(秋山は眉目秀麗であった)、「男子は生涯、一事をなせば足る」との考えだった。そして「若いころはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである」 と語っている。この言葉は、人生の本質を突いている。何を志したか、何を残したか、である。これこそ、至言というものだろう。
秋山好古にとって、65歳で退役後の71歳で死去するまでの年月は宝石のような日々だったのではないだろうか。令和の時代では、こういう生き方を学ぶべきだろう。私は『坂の上の雲』を呼んで、弟の秋山真之の仕事ぶりに感銘を受けてきた者だが、古風である兄の好古のみごとな生涯を知ったことは幸運だった。私の言う「実年期」を見事に生き切った人である。