知研東京セミナー:山本勝彦「週末はギャラリーめぐり」ーーー自分の目で絵を見よ!

2限:授業。夏目漱石正岡子規武者小路実篤志賀直哉鈴木大拙西田幾多郎

昼休み:Tスタジオで「トレンドウオッチャー」の収録。久米先生に「フィンランド訪問」のインタビュー。

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夜は代々木で知研東京のセミナー。ゲスト講師は山本勝彦さん。会ったのは30年ぶりか。

以下、キーワード:アートコレクション。1700点。サラリーマンコレクター。佐藤美術館。若い人の絵を買う。貸し画廊。古いヒエラルキーは寿命。タコつぼ。アートソムリエ。横ぐし。地方。日本画、油絵、版画。商品としてみる。若い人を育てる。情報としての美術鑑賞という陥穽。絵自体を見よ。MBA的分析スタイルからアート修士号へ。分析と直感。サラリーマン経営者の限界。見る人は多い、絵の生産者は年間2万人、買う人はいない。企業メセナ協議会も振るわない。自分の目で絵を見よ!

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10年前の2009年に「「週末はギャラリーめぐり」(ちくま新書)を読み、ブログで紹介した。以下、その内容から抜粋。 

週末はギャラリーめぐり (ちくま新書)

週末はギャラリーめぐり (ちくま新書)

 

 サラリーマン人生をこなしながら、30年間にわって毎週末の画廊めぐりとアート蒐集を趣味として続け、1300点のアートを持つにいたった山本冬彦さんが、60歳の還暦を迎えるにあたっての記念として書いた本である。

30代、40代、50代という長い年月を、脇目もふらず一つのことに没頭した人生の達人の書だ。毎週土曜日には、雨の日も風の日も朝10時から夕方までの画廊巡りを続けたその蓄積が、控えめながらこの書全体にわたって滲み出ている。サラリーマンの常道であるゴルフ、酒、タバコ、カラオケ、マージャン、競馬など一切やらず、車も持たずに一点集中して絵画の蒐集にあたってきたという。著者は人生の達人といってよい。

「観るアート」から「買うアート」へ。美術品購入の基礎知識、美術品の価格、展示・保存。画廊巡りの楽しみ方。サラリーマンコレクターとしての人生、個人美術館への道。芸術家をとりまく厳しい現状と支援の方法。そういった知識と作法が具体的にやさしく書かれており、素人にはなかなかうかがい知れないこの世界へ誘ってくれる。この本を読むと、私たちと同時代を生きる作家たちへの支援という著者の高い志に感銘を受ける。

著者はアートソムリエとして、画廊界にはアートを一般に普及する活動を勧めている。それは、個人向けの講座、シンポジウム、講演会、ギャラリーツアーの主催などの啓蒙活動だ。そして個人向けには、心ある個人の「個人メセナ」を期待している。

安価なアート作品をボーナス毎に一点づつ買っていくと5年で10点となり、自宅が個人美術館になるそうだ。そしてコレクションという行為は実は編集であり、創造的な行為であるとのことであり、独自の目が重要である。そういったコレクターの目は、その作品を買うか買わないかという真剣勝負で磨かれていく。だから画廊巡りでは、どれを家に持ち帰ろうかという気持ちで見ることが大切だそうだ。

サラリーマンコレクターとして30年という年月を過ごしてきた著者には、本物を見分ける目と作家たちを見まもる暖かい心が備わっている。そのことが一貫したスタイルで書き綴ることができるというレベルの高い文章を読む中でわかる。美術界はここに楽しむ側に立つ一人の貴重な解説者を得たようである。

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「名言との対話」10月25日。岩谷時子「「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くんじゃない」

岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年大正5年)3月28日 - 2013年平成25年)10月25日)は、日本作詞家詩人翻訳家

岩谷時子は、宝塚で出発した8歳下の越路吹雪の献身的で有能なマネジャー、そして大ヒットを連発する作詞家、その二つの顔を持っている。 『ラストダンスは私にーー岩谷時子物語』(村岡恵理)は、岩谷時子の若い時代を含む日記を材料として、71歳の時点までを描いた伝記だ。

47歳で12年勤めた東宝を辞めた。出版部時代を含め24年の勤め人生活だった。ほとんどは越路吹雪のマネジャーだった。その後はボランティアとして越路のマネジャーを続けた。「売れているときはタレントの魅力とされるが、落ち目になれば、全てはマネージャーの責任だった」「マネージャーの仕事の大半は、苦言と駆け引きである」。そして引き際の見極めと演出はマネジャーとしての最大の課題だと考えており、その仕事を誠実にこなしていく。幾多の困難と愛憎を経た越路吹雪との友情は特別だった。

  作詞家としての発言も興味深い。「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くのが作詞家だという。女性でなければ書けないことばというのがたしかにあるから女性の作詞家は存在価値があると考えていた。この人についての情報の少なさは当時から不思議に思っていたが、作詞家というのは夢を売る仕事であり、取材などに応じて顔を表に出すものではないという信念で仕事をしていたことを知って納得した。

愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。訳詞は買い取りだが、作詞は印税制となった。

1963年のザ・ピーナッツ恋のバカンス』、岸洋子夜明けのうた』、弘田三枝子夢見るシャンソン人形』、沢たまきベッドで煙草を吸わないで』、園まり逢いたくて逢いたくて』、加山雄三君といつまでも』、佐良直美いいじゃないの幸せならば』、1968年のピンキーとキラーズ恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。1964年、「ウナ・セラ・ディ東京」「夜明けの歌」で、日本レコード大賞作詞賞。1966年、「君といつまでも」「逢いたくて逢いたくて」で2回目の日本レコード大賞作詞賞。 作曲を手掛ける加山雄三との出会い。「ふたりを夕やみがつつむこの窓辺に、、」の「君といつまでも」、「風にふるえる緑の草原、、」で始まる「旅人よ」。加山雄三の爽やかさをイメージした岩谷の詞は純愛とロマンに満ち溢れたものとなった。加山が團伊玖磨山田耕筰を足して2で割ったペンネームの弾厚作の作曲、作詞の岩谷時子は黄金コンビだった。

岩谷がライフワークとしたのはミュージカルだった。「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」は何度も再演され、その度に稽古に立ち会い、訳詞のやり直しをし続けた。西洋のメロディに美しい日本語を生かすことに情熱を燃やし続けた。

 1970年代後半だっただろうか、JALの千歳にいた時代に札幌のコンサートで越路吹雪の歌を堪能したことがある。「あなたの燃える手で 私を抱きしめて、、」で始まる「愛の賛歌」が深く印象に残っている。

岩谷時子は90歳を越えるまで現役の作詞家として活躍するなどそれから四半世紀を生きた。「夕鶴」のたとえのように、作詞家という仕事は、身を削る仕事だったのである。