広尾で野田一夫先生(92歳)と語る会を開催。
立教大学OB、多摩大学OB、宮城大学OBなど40人ほどの教え子たちが集合。立教OBの高橋茂人さんの挨拶の後、私は「現代の論語 野田一夫語録」出版プロジェクトの開始を宣言した。https://forms.gle/7mMTadp44QLGokUw6
師匠と弟子。
高橋さんのスピーチ。
乾杯!
多摩大OBグループとの対話。
「凛然」。岡山、秋田からも参加。
宮城大OBグループとの対話。力丸君の司会。
蔡君。力丸君。平君。奥君。高山君。石橋君。、、、
仙台から駆けつけた野田一夫ファンクラブ会長の富田さん。
修了後、力丸君と玉川大学の小酒井先生と打ち上げ。
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昼: 立川で整体。
夕刻:東京駅のステーションギャラリーで「坂田一男」展。
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「名言との対話」12月26日。石垣りん「自分の住む所には/自分の手で表札をかけるに限る」
石垣 りん(いしがき りん、1920年(大正9年)2月21日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、詩人。
3歳で関東大震災に遭遇。4歳の時に生母と死別、以後3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。15歳で高等小学校を卒業後、日本興業銀行の事務見習いで入行し、定年まで勤めあげた。親に迷惑をかけずに自分が好きな詩を書くために収入を持ちたいという思想を持ち、生涯独身だった。
この有名な詩人は、ほぼ10年ごとに4冊の詩集しか出していない。『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年、39歳)、『表札など』(1968年、48歳)、『略歴』(1979年)、『やさしい言葉』(1984年)。この4冊は「石垣りん文庫」として1998年から2002年にかけて刊行される。また童話屋から、2000年から2002年にかけて刊行される。また「石垣りん」の詩集として思潮社、中央公論社、童話屋、角川春樹事務所、理論社からも1971年から2004年にかけて刊行される。1冊1冊、1詩1詩が人々の胸を打ち続けてきたことがわかる。
第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞を受賞している。そして「教科書に多数の作品が収録されている。
「表札」自分の住む所には/自分の手で表札をかけるに限る。、、、精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。(石垣りんはこの詩を書くために生まれてきたと評されるほど有名な詩)
「儀式」母親は/白い割烹着の紐をうしろで結び/板敷の台所におりて/流しの前に娘を連れてゆくがいい。、、、、パッケージされた肉の片々を材料と呼び/料理は愛情です、などとやさしく諭すまえに。/長い間。私たちがどうやって生きてきたか。/どうやってこれから生きてゆくか。
詩について石垣りんは次のように言っている。「詩は虹を書くことではない」。「虹を指している指、それがどうやら詩であるらしいということ」。
与謝野晶子を祖とし、永瀬清子等へ続く女性詩人の「実感軸」の系譜の流れの先に位置する詩人である。また、「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」が代表作の6つ下の茨木のり子と石垣りんが、戦後の女性解放時代を代表する詩人として双璧だった。当たり前の暮らしをしながら、鋭い刃物のような言葉で生きることの本質を描いた詩人だった。これまで人間が、女性がどう生きてきたか、これからどう生きていくかが詩の主題だった。NHKアーカイブで語っているように、「これだけは言わせていただく」という言葉が、石垣りんの詩だったのだ。
2009年 静岡県南伊豆町の町立図書館内に「石垣りん文学記念室」が開設された。凛凛たる響の名前、凛然たる風貌、この人は生涯を「石垣りん」として、凛として生き抜いた人だ。