柳兼子(声楽家。柳宗悦夫人)「やっと80歳になって歌が歌えたなという気がいたしますからね。長生きをしてよかったなと思います」

日本民芸館の向かいに建つ柳宗悦旧居。2階には柳宗悦記念室がある。日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿、著書などをみることができる。また書斎の壁半分を占める自らデザインした本棚には4万冊の蔵書がおさまっている。「今日も空 晴し又」という書がかかっている。

驚いたことに1階には柳兼子記念室があった。知らなかったが、兼子は宗悦の妻であると同時に声楽家としても大をなした女性であった。民芸館で売っていた松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』を購入し兼子の生涯を追った。

兼子は芥川龍之介と幼稚園、小学校で同級だった。男と同等の立場でいこうと考え、声楽なら女の立場があると気がつき、東京音楽学校で声楽を学ぶ。歌い手になるよりも芸術家になりたいと考えた。師のペツォールドから「お前の声はドラマティックだ」と励まされた。

宗悦21歳、兼子18歳で出会い、兼子の22歳で歌を続ける条件で結婚する。宗悦の母の勝子は加納治五郎の姉である。1924年、宗悦は同志社女子専門学校教授となる。1925年、兼子は33歳で同志社女子専門学校講師になる。宗悦の収入は朝鮮の民芸品や本代に消えるため、生活費は兼子の肩にかかっていた。36歳、発音の勉強と実力を試すためにドイツに半年滞在し、独唱会をひらき、「東京の柳兼子、それは異常な出現である」と新聞で絶賛される。

兼子は民芸運動創始者柳宗悦夫人であり、宗理(インダストリアルデザイナー)、宗玄(美術史家)、宗民(園芸家)の3人の子どもを育てながら、歌と家庭を両立させた。日経新聞では「女の中の女」と紹介されている。62歳、国立音楽大学教授。年1回のペースでリサイタルを続ける。69歳、宗悦が民芸館で椅子に座ったまま昏睡状態、その後72歳で死去。69歳の兼子の人生はそれから23年あった。紫綬褒章芸術院会員。

日本の声楽家は50歳で引退する人が多いが、自分は80歳でやっとうようやく歌が歌えたなという気がいたしますと語り、長生きをしてよかったと思う。83歳でアルトの声でリサイタルをしている。

92歳で亡くなったときの葬儀では長男で喪主の柳宗理は「母なしには民芸館は建たなかったと思う」と挨拶をしている。日本の声楽の基礎を築いたアルト歌手は92歳で天寿を全うした。不撓不屈で研究を続けたところにこの人の偉さがある。高齢化時代の女性の生き方のモデルだ。

 (松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』)

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「名言との対話」12月27日。ベーナズィール・ブットーパキスタンは、核心的技術を持っているが、平和目的に限って使ってきた。今後、核兵器製造や核実験、兵器技術輸出などのために使わねばならない日が、決して来ないことを願っている」

ベーナズィール・ブットーBenazir Bhuttoシンド語:بینظیر ڀھٽو、ウルドゥー語: بینظیر بھٹو1953年6月21日 - 2007年12月27日)は、パキスタン政治家。

祖父、父と有力政治家を産んだパキスタンの「ブット王朝」と呼ばれる名家出身のこの女性は1969年4月、米国ハーバード大学ラドクリフ・カレッジおよび英国オックスフォード大学レディー・マーガレット・ホール校で学び、1973年秋にオクスフォードに進学。PPE(政治学・哲学・経済学)で修士号を得た。

帰国後、父であるズルフィカール・アリー・ブットー首相が設立したパキスタン人民党(PPP)の総裁(党首)となり、イスラム諸国家における初の女性首相になった。当時のイスラム諸国最年少の35歳のリーダーとなった。この年にビープル誌で「世界でもっとも美しい50人」にも選出されている。1993年には2度目の首相に選出されている。2007年12月27日に、政界復帰を目指して、国会議員選挙運動中に銃撃と自爆テロで暗殺された。10数年前のこのニュースは世界に衝撃を与えた。私もその一人だった。

 英国からの分離独立したヒンズー教徒中心のインドとイスラム教徒中心のパキスタンは宿敵同士となって、紛争は恒常的に起こっている。パキスタンの核の論理をブットーは次のように説明している。

パキスタンは、核心的技術を持っているが、平和目的に限って使ってきた。今後、核兵器製造や核実験、兵器技術輸出などのために使わねばならない日が、決して来ないことを願っている」「わが国を核拡散の道へ追いやる国がインドであることを認識せねばならない。インドは、南アジアを救うため、自制すべきだ」

しかし、インドは核を持った。パキスタンも後を追うしかない。それが唯一の自衛手段であると、後にパキスタンも核実験を強行し、事実上の核保有国となった。

現在パキスタンは隣国アフガニスタンからの難民流入によって人口が急増しており、2017年には2億人を超えている。2050年には中国、インド、アメリカに次ぐ人口大国になると予想されている。

2013年、女性が教育を受けることに反対するタリバンから頭部と首に銃撃を受け負傷し奇跡的に命をとりとめたパキスタンの15歳のマララ・ユスフザイは世界の注目を浴びた。マララは国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。2014年にノーベル平和賞を受賞したマララは、イスラム世界における初の女性首相であるベーナズィールに刺激を受けたと語っている。マララは米タイム誌が発表した「2014年最も影響力のある25人のティーン」の一人に選ばれている。

女性差別の厳しいイスラム教を奉ずる国で、首相をつとめた女性・ブットーの動向は内外で注目されていた。そのブットーに刺激を受けた40年以上後に生まれた女性が次の時代を担っていく。一人の人物の出現は、後の世界に大きな影響を与える、そのことを改めて思った。