『坂田一男 捲土重来』展ーー日本人抽象画の先駆者

先日、「坂田一男 捲土重来」展を東京ステーションホテルで観た。副題は「格納された世界の全て、風景のすべて」。 「捲土」は土煙が巻き上がること、「重来」はその土煙が再びやって来ること。坂田 一男(さかた かずお、1889年8月22日 - 1956年5月28日)。

岡山県美里町大庄屋に生まれ、医者を目指すが挫折。病気療養中に画家を志す。1914年に上京し本郷絵画研究所で岡田三郎助、川端画学校で藤島武二に学ぶ。1921年、32歳で渡欧。フェルナン・レジェ(1881-1955)に師事し、キュビスムから抽象の道を歩む。レジェは「人物や肖像、人間の身体がオブジェとなるなら、現代の芸術家に大きな自由が与えられる」とした。機械的な要素から見事な物体を作りだそうとした。レジェが事物そのもの(図)を追求したのに対し、坂田は周囲の背景(地)を持った事物としてとらえようとした。この点は日本人の面目躍如だ。世界を地図、つまり地と図からなるという思想の表れだと私は理解した。地の中に浮かび上がってくる図を描くのだ。

足かけ12年半フランスに滞在し、1933年帰国後は岡山県倉敷市玉島にアトリエを構える。戦後、アヴァンギャルド・岡山(A・G・O)活動を行った。画業は知られなかったが、23年間の活動後に没した1956年の翌年にビリジストン美術館の遺作展から、わが国の抽象画家の先駆者としての評価がようやく高まった。

絵画の造形性を徹底的に追求し、対象の解体と再構成で造形の新たな秩序を求めたキュビスムを通過すると、画面に造形的骨格が現れる。情緒性を切り捨てた幾何学的画面が登場する。そこを徹底的に学んだ珍しい画家である。

「絵は売らない」「絵で生計を立てない」という方針を貫いた。経済的自由より、精神的自由を選んだ。パトロンに媚びない、他人の批評を気にしない。求道者、宗教者のような厳しい生き方の人だ。坂田は海老名弾正に洗礼を受けたピューリタンだった。また、日本人が西洋に学ぶやり方は失敗だとし、フランス人の中だけで交際し、学んだ。

抽象画は、実物とそっくりということは求めない。だから、見る人にいかに感動を与えるかになる。下絵(エスキュース)の段階で、消すことも描くことになる。

「作品は絶対にオリジナルであること。上手に描こうとするな。下手になれ。個性の表現のみが価値がある。物まねは自分のものではない」

坂田は幾何学的な要素を前面に出しながら、柔らかい色調、湿度を感じさせる「そり」「たわみ」につながる曲線的な要素が目立つ作品を描いている。純粋に作品のために生涯を捧げた画家・坂田一男は日本人としての抽象表現を目指したのである。

坂田一男と素描―抽象絵画の先駆者 (岡山文庫 (238))

坂田一男と素描―抽象絵画の先駆者 (岡山文庫 (238))

 

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新作映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』を観た。今年は毎週土曜日の夜にBSで放映される『男はつらいよ』をずっとみていて、すっかりファンになっていたので、必見の映画だ。第1作の1969年から50年目、今回が50作目だ。詳細は明日。

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「名言との対話」12月29日。諸井虔最悪の事態に遭遇した場合、いくらくよくよしても始まらない」

諸井 虔(もろい けん、1928年4月23日 - 2006年12月29日)は、日本実業家

秩父セメントの創業者一族に生まれ、東大経済学部をでて日本興業銀行勤務のとき、本家に請われて秩父セメントに入り、取締役を経て、1976年に社長、1986年に会長として活躍した。

財界活動にも熱心で、1985年に経済同友会の副代表幹事、1993年から日経連(現日本経団連)の副会長も務めた。1995年地方分権推進委員会委員長、2000年税制調査会委員、2001年地方制度調査会会長を歴任するなど、財界きっての論客として、歯切れの良い発言で財界の「ご意見番」と呼ばれた。ウシオ電機牛尾治朗、京セラの稲盛和夫、セコムの飯田亮とともに「ニュー財界四天王」と呼ばれていた。規制緩和を強力に主張し、推進しており、マスコミで語る姿をよく見かけた人だ。

父の 諸井三郎は作曲家であり、弟 の諸井誠も作曲家であり、本人も音楽の素養があったようで、大学、銀行時代にはアマチュア合唱団の指揮者としても活動している。

経営者に限らず大小はあっても組織を指導する立場にある人は、毎日様々な事件やトラブルに巻き込まれる。最悪の事態が勃発すると、人々の視線が自分に集中する。そのとき、どういう心持で対処するか。部下を叱り、原因をねちねちと追究することはやめよ。くよくよせずに、事態を切り拓くことに集中せよ。被害を少なくするために、手を打っていくことに集中せよ。冒頭の言葉は、長い期間にわたってトップとして組織を切り盛りしてきた人の発言だけに、平凡のようではあるが重みがある。