カラダの日ーー「人類誕生・未来編」「兄・舟橋聖一の素顔」

新年最初のカラダの日。

・ヨガ教室:早朝の1時間。新年初めの今日は6人。男性は私一人。しばらくぶりなので、疲れたが、やはり体調がよくなる感じがする。

・ジム:BSの「人類誕生・未来編」を見ながら時速6キロで50分のウオーキングネアンデルタール人とサピエンスの物語。肉体的に弱いサピエンスは、仲間と協力することができた。そして道具をつくることを覚えた。集団が大きくなると宗教が誕生する。5万年前あたりでは中東の地中海沿岸あたりで二つの人類が混血する。ところが生き残り競争に勝利したサピエンス同士は殺し合いを始める。現在のヨーロッパとアジアの人類のDNAには2.5%ほどネアンデルタール人のDNAが混じっている。ネアンデルタール人は今も我々の中に生きている。こういう壮大なストーリーだった。

・1月13日に舟橋聖一を描くため、ジムの待合で『兄・舟橋聖一の素顔』(舟橋和郎)の第一部を読了した。著書はシナリオライターであるが、描写が実にうまい。

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「名言との対話」1月7日。木見金治郎「棒ほど望めば、針ほど叶う」

木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。九段。

20歳あたりで後の名人・関根金治郎にひねられる。1914年30代半ばで上京し、関根に入門する。大阪の坂田三吉に対抗し、関西将棋界の大御所となった。1924年、8段。日本将棋連盟関西本部の立ち上げに尽力する。1951年、「日本将棋連盟葬」。1962年、九段を追贈される。

近代将棋黎明期の祖となっている人物としては、最も多い11人となる弟子を輩出した名伯楽として知られる。特に戦後の将棋界を牽引した升田幸三大山康晴が有名である。升田幸三は14歳、大山康晴は12歳で弟子入りしている。升田は、「木見先生の方針は、『自分で強くなれ』と、これに徹底しておった」と述懐している。妻ふさからは「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」と叱れている。ふさは大山少年に「将棋なんか、いくら強くなったって、思いやりのない人間になったら、ゼッタイに承知しませんよ」と言いきかせていた。

木見夫婦は人間教育をしていたのだ。二人は宿命のライバルとして昭和の将棋界を沸かした。升田幸三は「実力制第四代名人」となり、大山康晴は「十五世名人」となった。岡山県倉敷市の大山名人記念館の前に木見の駒形の石碑があるが、2014年の訪問時には見逃してしまった。

木見は名伯楽だった。伯楽とは本来は馬の能力を見分ける名人であり、転じて、人の素質を見抜きその能力を引き出し育てることができる人を指す。中国の春秋戦国時代に孫陽という馬の素質を見抜く人物がいて、天馬の守護星である「伯楽」がこの人の通称となった。「世に伯楽有り、然る後に千里馬有り。千里馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」はよく知られている。素質のある人はいるが、それを育てることのできる教育者はなかなかいない。今も昔も同じだ。仙台時代にキャリアカウンセラーの資格制度をつくったことがある。有資格者を「伯楽」と命名したことを思い出した。

 「棒ほど望めば、針ほど叶う」は、望みは大きくても、実際はほんのわずかしか叶わないものだと、ことわざ辞典にある。しかし、だから望みや願いは大きく持てば、叶うことも大きくなることにもなる。木見金治郎は、このことわざを用いて、夢や志は大きく持って、それに向かって努力すべしと逆の意味で使っている。一昨日取り上げた陶芸の浜田庄司も「願は大きく立てよ」と言っている。名伯楽が後輩に与える言葉は同じである。