仕事始め。「若き知性に」。ゴーン。

  • 秘書の近藤さんと仕事始め。
  • 1月21日の「名言との対話」のために、風呂で宮本百合子『若き知性に』(新日本出版社)を読み進めた。12歳から創作を始める。17歳、小説「貧しき人々の群」が坪内逍遥の推薦を得て「中央公論」に発表。それから35年で92編の小説、1000編の評論・随筆を書いた。享年51。「幸福、、船の舳が濤(おおなみ)をしのいで前進していく、そのときの困難ではあるが快さにも似たものだ」。
  • レバノンでのゴーン元日産会長の記者会見。報道陣は15ヵ国150社にのぼっている。日本からは多くのジャーナリストが出向いたが、会見場で画像を報道できたのは「テレビ東京」一社だったことに驚いた。

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「名言との対話」1月8日。梅津美治郎「幽窓無暦日」

梅津 美治郎(うめづ よしじろう1882年明治15年)1月4日 - 1949年昭和24年)1月8日)は、日本陸軍軍人

大分県中津市出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を首席で卒業。参謀本部陸軍省の主流を歩む。1936年、陸軍次官。1939年、関軍軍司令官(後に総司令官)、1944年、参謀総長に就任し、終戦後までつとめ、最後の参謀総長となった。

2015年に話題となった映画「日本の一番長い日」(半藤一利原作)をみたとき、関係者の年齢を調べたことがある。昭和天皇44歳。鈴木貫太郎首相77歳。阿南陸軍大臣58歳。木戸幸一内務大臣56歳。東郷茂徳外務大臣62歳。梅津美治郎参謀総長63歳。東条英機元首相60歳。米内光政海軍大臣65歳。昭和天皇は木本雅弘、鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司吉頂寺晃が演じていた梅津参謀総長には記憶にない。

東京湾で行われた戦艦ミズーリ号上の降伏文書の調印式では、政府代表の重光葵外務大臣)とともに、大本営全権となった。ミズーリ号は米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦である。このサイン文書は、ハワイのミズーリ博物館でみたことがある。梅津は東京裁判では沈黙を守り、終身禁固刑で服役する。

終戦時に自決した大分県竹田市出身の最後の陸相阿南惟機については、2005年に大分県竹田市の広瀬(武夫)神社を訪ねたとき、その一角に「陸軍大臣 阿南惟機 顕彰碑   岸信介書」という碑が建っているのをみたことがある。大分県国東市安岐町には重光葵を顕彰した三渓偉人館があり、神奈川県の湯河原には重光葵記念館がある。この時代には中津出身の梅津ら大分県出身者が活躍していたのだ。しかし最後の参謀総長・梅津には記念館も、顕彰碑もない。

「最後の参謀総長梅津美智治郎」「終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」「語らずの将軍」「参謀総長梅津美治郎と「戦争の時代」など梅津を描いた本はある。終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」では「聖将今村均から尊敬され、あの東条英機に引導を渡し、阿南陸相を蔭から強く支えて、日本を見事に終戦に導いた最後の参謀総長・梅津大将」との紹介がある。日記もつけず、手記も記録も一切ない。家も建てなかった。演説をぶったり、大声明を発表したり、大論争もしなかった。これらの梅津を描いた書籍は、石碑ではなく、「紙碑」であると言えようか。

服役中に病没。享年68。病床には「幽窓無暦日」と書いた紙が残されていた。幽玄な風景が窓からみえる。それを毎日眺めていると時の流れを忘れる。そういう心境だろうか。