書籍のタイトル。知研50周年企画。弟と従弟との交歓会。

荻窪日本地域社会研究所

・編集者と来月刊行の書籍の打ち合わせ。タイトル談義。258ページ。今週末にゲラをチェックする。

・中沢さん(日経編集委員)と知研副理事長の高橋さんと大阪の民博で開催の知研50周年企画の相談。概要が決まった。

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 夜は町田で、弟と従弟の泰三との交歓会。今夜はよく飲んだ。そしてよく笑った。例によって乗り過ごし、、、。

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朝は、ヨガ教室で1時間。

宮本百合子は「偉人の命日366名言集」の中で紹介しているが、今回は質・量ともに増やしたバージョンアップ版。「戦後編」は、こういう形もあることにしたい。

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「名言との対話」1月21日。宮本百合子「幸福というものが、案外にも活気横溢したもので、たとえて見れば船の舳先(へさき)が濤(おおなみ)をしのいで前進してゆく、そのときの困難ではあるが快さ似たものだ、、、」

宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年明治32年)2月13日 - 1951年昭和26年)1月21日)は、昭和期の小説家評論家。本名は中條ユリ。

1916年、17歳で「貧しき人々の群れ」を中央公論に発表し注目される。日本女子大英文科予科に入学するが1学期で中退。1918年、北海道のアイヌ村を訪問し「風に乗って来るコロボックル」を執筆。渡米1919年、ニューヨークで荒木茂と結婚。単身帰国。1924年、自伝的小説「伸子」連作を書き始める。離婚。1925年、同性愛者であった湯浅芳子と同居する。1927年、3年書き続けた「伸子」の推敲を終えて湯浅とソビエトに行く。1930年、帰国。日本プロレタリア作家同盟に加盟。1931年、非合法化の日本共産党に入党。1932年、宮本顕治と結婚。百合子は検挙され、顕治は地下にもぐる。1934年、入籍。1935年、「乳房」を発表。1937年、筆名を宮本百合子にあらためる。1937年、「婦人と文学」「杉垣」を発表。検挙、執筆禁止などで敗戦まで沈黙。1940年、評論集『明日への精神』がベストセラー。1945年、治安維持費法撤廃で網走から顕治帰京。1947年、「播州平野」が毎日出版文化賞。「宮本百合子選集」の刊行が始まる。1951年死去。享年51。2001年から始まった「宮本百合子全集」は33巻に達した。

百合子の年譜をたどると、官憲からの執拗な弾圧の中で、共産党員としての活発な運動と、民主主義文学のリーダーとしての旺盛な執筆活動を続けたことに感銘を受ける。獄中にいた宮本顕治とは合計900通に達する往復書簡を書いた。その一部は『十二年の手紙』として刊行されている。宮本百合子は短い生涯で、92編の小説と約1000編もの評論・随想を書いている。

「平和は眠りを許さない。地球のすべての男女の運命がそれにかかわっている。最もまめな骨おしみをしない人類的事業の一つである」。これは左翼運動家としての名言だ。

百合子は女性の伝記も書いている。『真実に生きた女性たち』(創生社)のまえがきには「彼女たちは、歴史によって生み出された。けれども、明日の歴史をつくってゆく新しい力のいくらかは、疑いなくその彼女たちによって生まれているのである」として、ナイチンゲールや、ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功しその精錬のやり方を人類の資産とすべく公表したキュリー夫人らの崇高な生涯を教えてくれる。

『若き知性に』の中の「幸福の感覚」という項では、幸福について多くを語っている。幸福は固定したものではない。動的な現象事象から離れたどこかに久遠の幸福を感じることはできない。日常生活の中に湧いたり消えたりする幸福感を見出すには、生活の悲しみや苦しみをひっくるめて感じてゆく広く豊かな心情が必要だ。幸福は昼寝の子猫のような姿ではない。優れた文学作品は筋を読むものではない、幸福の最高のありようを示すものだ。そこには破調と統一を理解する美的感覚が必要だ。、、、

「幸福というものが、案外にも活気横溢したもので、たとえて見れば船の舳先(へさき)が濤(おおなみ)をしのいで前進してゆく、そのときの困難ではあるが快さ似たものだ、、、」。洋の東西を問わず、多くの「幸福論」を読んできたが、宮本百合子のような表現はみたことがない。行動家であり、文学者であり、女性であったという個性の中から紡ぎ出された名言である。

新編 若き知性に