鮎川義介研究会(鮎研)

鮎川義介研究会(鮎研)を開催(地研)。私の担当の「人物論」に関わる6冊の書物からピックアップしたもの。一度、仕えてみたいと思わせる大人物だ。

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企画、創造するという点については、実に規模が大きくて到れり尽くせりという点では、天下一品でしょう。、、、金が目的ではなくて仕事そのものを楽しむというのである。、、、困難な誰にでもやれぬ仕事をやるというのである。、、、、どこまでも理論的で、理屈を押し通してゆく。、、、研究と調査の上に立って、一旦きめたらどこまでもやていく、、、、地道にその事業を仕上げて、正当な利益があればいい、という行き方である、、、、。むづかしい仕事をやて喜ぶ、、。帝国石油、、、日本石油開発、、、。中小企業のこと、、、、むづかしい仕事だからワシがやろうというのだ、、、。(有楽町人談)

鮎川君か、これはえらい。国宝的な存在といってもいいだろう。欲がなくて独創的の事をする。、、、鮎川君なんか一等国宝だろう。、、彼は目のつけどころがいい。そして構想が大きい。、、、日本の南極の捕鯨事業をやったのは、実に鮎川その人であった。(北洋住人談)

鮎川という人は構想企画をする点では、財界であの人の右に出る人はあるまいと思う。それはあの人は頭がいいからでもあるが、同時に金銭欲がないからの結果であると思う。、、、実に冷静で、頭の組織は定規のように、ピチンとしている。どこまでも理屈で行く。 。。。膝をつきあわせて酒を飲むようなことをしない。大変な熱情のあるような言葉使いもしない。、、、一旦関係のついたものは、どこまでも面倒を見るのである。(渋谷山人談)

とにかくあの人は大変な偉いお方だと思っております。(大通商人談)

彼はよく計画をする男である。日本の財界にはなくてはならぬ人物である。(長防海人談)

 昭和日本の怪物の一人。、、、技術者であったことの力が大きい。、、鮎川にいわせれば、「私は元来、技術屋を養成して、職を与えてやる」ことを目的としたのだという。、、、鮎川のボロ会社買いが始まった、、、。子会社は、また、それぞれに技術者の小王国をかあtちづくっていた。、、大衆から資金を得て、「発明を産業化する」ために使おうというのであった。、、、「ボロ買いの日産」と悪口をいわれながら、「公衆」の資金を動員して企業に投入し、その企業を一流にしたてあげるという手腕と技術、、、。経営の奇才。

 財界の風雲児。

鮎川氏は、生きた魚を直ぐ冷凍させることにしたのである。、、、鮎川は最初鉄の事業をやった。、、、その知識を魚の冷凍に応用したのである。、、、正確な知識で判断して、事業の合併でも、新設でも、即座に決めてしまう。、、、昔の三菱の意気である。、、、知能の勇将なのである。

 「私の絵は我流である」「私は皆さん大衆のために事業をしている」

彼は一切の事業を計数的に割切れるやうに考案する。、、軍需工業以外、手を染めない鮎川の主観も亦、賢明である。、、、科学的な適材適所である。、、、

 「俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいて行こう」

「金持ちが決して幸福なもんではない事を知ってからは、むしろ金持ちにならないで、彼ら以上に羽翼を伸ばしてみたい。その方策はあるまいかと考えるようになったのです」

「日産の場合はデモクラシィを基盤とする独裁であったというのが正しい見方であろう」

「民主主義を財界に現す方法として、一番適切なものは公衆株だと思う、、、理想は全株を民主化することによって企業運営の公正化を期すことにある」

「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」

「犬喰わずがある。それを私は好む。、、、人のやらないことばかりやってきた。そして悦に入っているわけだ。そういう損ばかりするクセがある。、、」

つづく、、、。

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「名言との対話」1月28日。緒方竹虎言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」

緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年明治21年)1月30日 - 1956年昭和31年)1月28日)は、日本ジャーナリスト政治家

福岡修猶館中学から、京都や九州の帝大に進んだ兄たちと違って、中国相手の実業家を夢見て東京高商に入るが、退学し早稲田大学編入する。そして1年上の親友・中野正剛の誘いに応じて朝日新聞に入社する。ロンドンへの私費留学、ワシントン軍縮会議を経て、腰を据えて新聞事業に取り組むことになった。徳川夢声は緒方を「九州男児がイギリス風のものを身につけている感じ」と記している。整理部長、政治部長、編集局長、主筆、副社長を歴任し、ジャーナリストとして大成する。

二・二六事件で反乱軍の将校が代表者を出せと言ってきたとき、48歳の緒方が出て、体を近接させて応対し、難を回避している。気力においてまさったのである。この様子はNHK大河ドラマ「韋駄天」で田端の上司として緒方竹虎を演じたリリー・フランキーの好演でよくわかった。

山本五十六とは互いに認め合った仲だった。真珠湾攻撃の後、山本は手紙で敵の寝首をかいたにすぎず、敵は決然たる反撃にでるだろうとし、緒方に「銃後のご指導はよろしく願う」としている。

緒方は「一人一業」を理想としていたが、東條内閣の辞職による小磯内閣の情報局総裁という大臣ポストにつくことになってしまった。太平洋戦争は日華事変の延長であり、まず日華の調整から、和平への道を探ることになる。日本が降伏したとき、整然と武器を捨てたが、緒方は「一人の榎本釜次郎、一個の彰義隊が飛び出す位は、あるべきではないか」と複雑な心境を後に述べている。東久邇内閣では緒方は書記官長に就任した。公職追放となり、「これからあとは、すべて余生だ」として借家に戻った。自分の人生を凝縮した時間を持った。7年間の浪人生活を送る。

戦後、吉田茂内閣の官房長官、すぐに副総理になった。池田勇人佐藤栄作がまだ若く、吉田の後継は緒方が筆頭であった。緒方は吉田茂流の詭弁は認めず、自衛の軍であっても憲法に書き込むべきだという考えだった。保守合同の機運をそがないために、佐藤栄作幹事長逮捕に関し、法務大臣の指揮権発動に力になった。苦境に陥った吉田が解散を考えたのに対し、緒方は憲政の常道に反するとして退陣させている。緒方は自由党総裁に就任した。そして死が訪れる。67歳。

緒方の死は日本の政治史上の一大痛恨事であった。野党党首の鈴木茂三郎も「痛惜の至りにたえません」との心のこもった追悼演説を行った。またイギリスのタイムスも惜しんでいる。風采。弁舌。勇気。経歴。基盤。貫禄。素養。風格。筆力。このどれをとっても、優れていた緒方竹虎は、良質な保守政治家としての資質にあふれていた。緒方竹虎という名前は、頭山満中野正剛や、政治家の事績をたどると、よく目にする。今回、三好徹の警世の書「評伝 緒形竹虎」を読んで、この人の偉さがよくわかった。

言論人としての緒方は、主張のため新聞を発行するなら、広告依存度の高い大新聞よりも、週刊誌のほうがいいとも言っている。確かに現在でも週刊誌の威力は大したものだ。そして軍部による新聞の廃刊の脅しの中で、新聞の轡ぞろえができず、戦争への道を許したことを反省しながら、「言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」と述懐している。今もまだ生きている教訓である。 

評伝 緒方竹虎―激動の昭和を生きた保守政治家 (岩波現代文庫)