片岡球子「面構」シリーズ展ーーー「やっぱり、一生懸命という以外にないですね」

横浜そごう美術館の「面構え 片岡球子展」。

今まで片岡球子の「富士」ばかり見てきたのだが、「面構」(つらがまえ)シリーズをみて、この画家のことをさらに知って、収穫があった。

103歳という長寿が有名だが、「ライフワーク」を意識した61歳(1966年)から99歳(2004年)まで、38年間、「足利尊氏」から「鍬形萬斎」まで、毎年一作づつ「面構」シリーズを描き続けたのである。その前に描いたものも含めて、作品数は44点を数えた。

また、同じころから、「富士」に本格的に取り組んでいる。還暦を過ぎて、残りの人生を見据えて、「面構」と「富士」をテーマとしたのである。

足利尊氏」。「徳川家康」。「日蓮」。「白隠」。「上杉謙信」。「豊太閤と黒田如水」。」「東洲斎写楽」。「葛飾北斎」。「喜多川歌麿と鳥居清長」。「安藤広重」。「歌川国芳」。「歌川豊国」。「北斎と馬琴」。「柳亭種彦」。「山東京伝」。「国貞と鶴屋南北」。「河竹黙阿弥と豊国」。「鈴木春信と平賀源内」。「安藤広重」。「歌麿と蔦谷重三郎」。「雪舟」。「一休さま」。「お栄と北斎」。、、、。

  • やっぱり、一生懸命という以外にないですね。
  • 死ぬまで勉強だから、年齢をとる暇は無い。
  • 人間の生活力に貢献するものを作るのが、芸術家の運命だと思いますね。失意のどん底にいる人間が、その前になったとき、苦しみや悩みを超越できる共感を、ちょっとでも与えることが出来る作品。そうした仕事を、私はいつも考えているんですよ。
  • 「面構え」と言うのは、字の通りで、顔を形成する形、顔から受ける印象、感じでありますが、そこには人間の魂が乗り移っているものだと解釈して、その人物を解剖しようという試みです。
  • 「面構」も、日本のためにいい仕事をした男性を描く。これが死ぬまでの画家の仕事だと覚悟を決めて始めたことです。
  • 女はいやだ、男を描きたいと思いました。
  • これだけの仕事をして死んだなということを残しておこうと思ってやってるんだから、よその人に関係ないがないのよ。
  • この人たちが生きていたら、どんな政治をするだろうかと考える。コメはどうするだろうか、自動車は?と想像する。そこまで生身の存在に感じられないと、描けないということだ。
  • 人間の魂を、なんとか絵にしたいと、、、人間の年齢とか性格とか、その人がどのぐらい精進しているかというようなことは、必ず顔に出る。それは恐ろしいほどですね。、、人間の魂は、顔に映ると思っているのでございますよ。
    面構えは死ぬまでやります。自分で発心て始めたことですから、途中でやめたら意地が通りません。
  • 61歳になっておりました。もう私の人生も最後に近いから、やっぱり一生描ける課題を探そうと思って「面構」というのを見つけました。日本を代表する男性、それを描き残しておこうというのがテーマなのです。

小林古径「今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。しかし、ゲテモノと本物は、紙一重の差です。あなたはそのゲテモノを捨ててはいけない。自分で自分の絵にゲロが出るほど描き続けなさい。そのうちにはっと嫌になってくる。いつか必ず自分の絵に、あきてしまう時が来ます。その時から、あなたの絵は変わるでしょう。薄紙をはぐように変わってきます。それまでに、何年かかるかわかりませんが、あなたの絵を絶対に変えてはなりません。誰がなんと言おうとも、そんなことに耳を傾けることはいりません。」

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「名言との対話」1月28日。緒方竹虎言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」

緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年明治21年)1月30日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。

おがた‐たけとら【緒方竹虎】ヲ‥ - 広辞苑無料検索

福岡修猶館中学から、京都や九州の帝大に進んだ兄たちと違って、中国相手の実業家を夢見て東京高商に入るが、退学し早稲田大学編入する。そして1年上の親友・中野正剛の誘いに応じて朝日新聞に入社する。ロンドンへの私費留学、ワシントン軍縮会議を経て、腰を据えて新聞事業に取り組むことになった。徳川夢声は緒方を「九州男児がイギリス風のものを身につけている感じ」と記している。整理部長、政治部長、編集局長、主筆、副社長を歴任し、ジャーナリストとして大成する。

二・二六事件で反乱軍の将校が代表者を出せと言ってきたとき、48歳の緒方が出て、体を近接させて応対し、難を回避している。気力においてまさったのである。この様子はNHK大河ドラマ「韋駄天」で田端の上司として緒方竹虎を演じたリリー・フランキーの好演でよくわかった。

山本五十六とは互いに認め合った仲だった。真珠湾攻撃の後、山本は手紙で敵の寝首をかいたにすぎず、敵は決然たる反撃にでるだろうとし、緒方に「銃後のご指導はよろしく願う」としている。

緒方は「一人一業」を理想としていたが、東條内閣の辞職による小磯内閣の情報局総裁という大臣ポストにつくことになってしまった。太平洋戦争は日華事変の延長であり、まず日華の調整から、和平への道を探ることになる。日本が降伏したとき、整然と武器を捨てたが、緒方は「一人の榎本釜次郎、一個の彰義隊が飛び出す位は、あるべきではないか」と複雑な心境を後に述べている。東久邇内閣では緒方は書記官長に就任した。公職追放となり、「これからあとは、すべて余生だ」として借家に戻った。自分の人生を凝縮した時間を持った。7年間の浪人生活を送る。

戦後、吉田茂内閣の官房長官、すぐに副総理になった。池田勇人佐藤栄作がまだ若く、吉田の後継は緒方が筆頭であった。緒方は吉田茂流の詭弁は認めず、自衛の軍であっても憲法に書き込むべきだという考えだった。保守合同の機運をそがないために、佐藤栄作幹事長逮捕に関し、法務大臣の指揮権発動に力になった。苦境に陥った吉田が解散を考えたのに対し、緒方は憲政の常道に反するとして退陣させている。緒方は自由党総裁に就任した。そして死が訪れる。67歳。

緒方の死は日本の政治史上の一大痛恨事であった。野党党首の鈴木茂三郎も「痛惜の至りにたえません」との心のこもった追悼演説を行った。またイギリスのタイムスも惜しんでいる。風采。弁舌。勇気。経歴。基盤。貫禄。素養。風格。筆力。このどれをとっても、優れていた緒方竹虎は、良質な保守政治家としての資質にあふれていた。緒方竹虎という名前は、頭山満中野正剛や、政治家の事績をたどると、よく目にする。今回、三好徹の警世の書『評伝 緒形竹虎』を読んで、この人の偉さがよくわかった。

言論人としての緒方は、主張のため新聞を発行するなら、広告依存度の高い大新聞よりも、週刊誌のほうがいいとも言っている。確かに現在でも週刊誌の威力は大したものだ。そして軍部による新聞の廃刊の脅しの中で、新聞の轡ぞろえができず、戦争への道を許したことを反省しながら、「言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」と述懐している。今もまだ生きている教訓である。 

緒方竹虎は新聞人、そしてはからずも大臣ポストにつき、公職追放となって7年間の浪人生活を送る。ここまでだと、近代を生きた人ということになる。しかし、世間は緒方を放っておかずに、戦後政治の中枢に押し上げつつあった。もし、緒方の寿命がもう少し長かったら、もう少し生きて、現代へのつなぎをやっていたら、日本はどうなっていただろうか。惜しみてあまりある人物である。