「幸福塾」ーー三枝成彰。宮本輝。片山晋呉。白川義員。徳富蘇峰。本居宣長、金子鷗亭、イチロー、大谷翔平、本田圭佑

本日の「幸福塾」は計画的にライフワークに取り組んだ人たちを取り上げた。三枝成彰宮本輝片山晋呉白川義員徳富蘇峰本居宣長、金子鷗亭、イチロー大谷翔平本田圭佑らも紹介。

近況報告の中では、最近触れた高岡正明(陽光桜)、羽生善治安藤和津夢野久作三国清三を話題にした。

陽光桜

 

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もおつかれさまです。本日の幸福塾、冒頭久恒先生より、「陽光桜」平和のシンボルとして世界中で植樹を行った高岡正明氏についてお話頂きました。農業科の教員として、教え子達を戦場へ送ってしまった贖罪から彼らが眠るかつての戦地で植樹を行う傍ら、病気に強い品種への改良の為、私材をなげうち活動。やがて長男へひきつがれ、長年献身的に活動を継続、特に植樹を通じて築かれた世界中の要人達との交流関係は、これからの国際社会に不可欠な俯瞰的視野に基づく心構えと共感しました。また久恒先生より最近のブログや身近な気付きとしてさらにお二人紹介頂きました。①将棋の羽生善治氏:「至らぬところを改善して次に目指す」、ひたむきでおごらない姿勢や打たれ強さ、②オーナーシェフの三國  清三氏:若き日にジュネーブ日本大使館への修行に抜擢、腕を磨き帰国後レストラン事業が大成功もこれをたたみ小さなレストランで再出発、師匠(村上信夫帝国ホテル初代シェフ)と同じ84歳まで現役を目指す、憧れた若き日への回帰。お二方夫々の人生テーマと真摯に向き合う純粋さに惹かれました。次に今日の本題、個人『ライフワーカー』について引き続き久恒先生よりレクチュア頂きました。これまで40人くらいの人物模様を学んできましたが、今迄は「結果としてそうなった」ライフワークが主流、今回は「計画的に築き上げられたライフワークの持ち主」が紹介されました。1) 作曲家三枝成彰氏:ワーグナー(14時間)を超える16時間の大作作りを目指す。ほかの仕事もあるから、1日11時間仕事に没頭。書きあがる迄は死ねないが「討ち死に」上等。題材は日本の歴史。2)小説家宮本輝氏:広告代理店退職後新人賞に応募も落選、「素直に淡々と書け」との指導を実践すると、大当たり!『泥の河』で第13回太宰治賞(1977)、『螢川』で第78回芥川賞 (1978)を受賞。生涯に100本、量で世界を目指す、「あと20年書きたい」(65歳でのインタビュより)、3) プロゴルファ片山晋呉トレードマークはカウボーイ・ハット、25歳の時に未来予想:「35歳で25勝」…達成できた、体格に恵まれなかった分、体づくりに腐心、積み上げて来た。4) 写真家白川議員:世界の風景写真集全12巻の出版を27歳の時決意し、以後世界を飛び回る。アルプス、ヒマラヤ、名瀑…世界143か国と南極大陸、85歳で完成、撮影では準備の苦労が95%、総費用18億円、前人未到の超大作。5) 徳富 蘇峰:近世日本国民史全100巻、個人編著の歴史書としては、世界でも屈指の規模、34年間で17万枚の原稿用紙、資料集めへの執念。5)元メジャーリーガーイチロー:小学校時代バッティングセンター通い父との二人三脚、夢かなう。6) メジャーリーガー大谷翔平曼荼羅図(目標達成シート)、カラダ・ココロ共に鍛え、夢は「ドラ1 8球団」…当方お気に入りは「イチロー」 、大好きな野球にいつまでも取り組んでいきたい、いまも欠かさないトレーニングで、エキジビジョンマッチではピッチャーをこなす、そして率先垂範で若き球児たちの手本となり…。いつでもどこでも最高のプレーが可能な「プロ」の姿勢に頭が下がります。心から『好き』だから『真摯に』に目の前の『怒涛の課題』との対峙をいとわず『継続』する『ひたむきな姿勢』…夢に向かってこちらから出向いていく「勇者たち」に共通した心持ちが少し理解できた気が致しました。相前後致しましたが、本日は力丸先生がゲスト参加され、学生達への課題解決ワークショップ計画について紹介頂きました。微力ながらお手伝いさせて頂ければと思います。さて、東日本大震災から12年が経過し、先週の東京新聞紙面には連続2日に渡り「夢と希望」に向かってタッグを組む2つの企業広告が掲載されました。街づくりという壮大なライフワークに果敢に取り組んでいく人びとの心意気に、久々に明るい話題に触れた気が致しました、共有致したく図を添付致します。有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は「計画的ライフワーカー」ということで、若いうちから、今世で到達したいことを明確に定め、そこから数十年かけて達成した人物についてご紹介いただきました。いわゆる「夢」というのか、生きがいという言い方が合うのかわかりませんが、彼らはそれを決めた時点で到達点のイメージを具体的かつ明確に持ち、しかも、そのためにどんなことを今からすべきなのか、何が大切か、どれくらいの時間がかかるのかなども同時に考え、その後は、ひたすら計画的に実行し続けたとのこと。これまで紹介されたライフワーカーは、コツコツと積み重ねた行動等が長期間に及んだことで、結果的にそれまで無かったレベルに到達したという方々でした。 共通点としては、どちらも何かに没頭し続けた結果であるという点ですが、「終着点を決めずに続けること」と「あるところに達成するまで続けること」とを比べて、どちらが続けやすいのかなとふと思いました。私にとってどちらが取り組みやすいか。内容によって違うかもしれませんが、一度考えてみようと思います。そして、ワクワク感を持って長く没頭できるものを早く見つけて、スタートさせたいです。これからもいろんなライフワーカーをご紹介いただきますようよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は「個人」のライフワーカーで、計画的にライフワークに取り組んでいる人、ということで、音楽家三枝成彰、作家の宮本輝、ゴルファ片山晋呉、カメラマン白川義員、ジャーナリスト徳富蘇峰古事記本居宣長、野球のイチロー大谷翔平、サッカーの本田圭佑などの紹介がありました。それぞれに、早い時期から志を立て、圧倒的な量と時間をかけてライフワークとするものを実現していくところに感銘を受けました。特に印象に残ったのが白川義員の写真集。27歳のときに12冊の写真集を出すことを志し、日本、世界各地の原始の風景や聖地を実際に訪れて写真を撮り続け、 85歳で完成させたという偉業。 具体的に 「12冊の写真集 」という  ライフワークの形が若いときからはっきりと見えていて、迷うことなく実現に向け邁進していったという印象です。「撮影の苦労は5%。準備の苦労が95%」という言葉からも着実に仕事を進めていくイメージが伝わってきました。計画的にライフワークに取り組んでいる人というのは、目標とするものが具体的で鮮明。何歳までにここまでいきたいということをはっきり意識している人が多い、と感じました。わが身を振り返り、少しでも近づければと思います。次回も「計画的ライフワーカー」とのこと。どのような偉業を成し遂げた人が登場するか、とても楽しみです。
  • 本日も濃い学びの時間をありがとうございました。本日はライフワークの中でも、「計画的ライフワーク」。若い時に具体的な壮大な目標を決め、その実現にひたすら向かって他のことには目もくれず邁進した人たちです。例えば作曲家の三枝成章はオペラ「平家物語」の四部作を書こうと決意し、1本書くのに3年かかるので1日8時間かけても間に合わない、11時間は必要だと。とにかく「これを書き終えるまで死ねない。」という強い執念に支えられてきたことを知りました。カメラマンの白川義員も27歳から83歳までに12巻の写真集を出すという計画。「私の仕事は歴史上類をみない撮影である」という誇り。徳富蘇峰の34年間にわたる17万枚の原稿用紙による「近世日本国民史」の仕事といい、本居宣長の35年かけた44巻の古事記伝といい、あまりにも壮大であっけにとられます。イチロー大谷翔平本田圭佑らの子供の頃からの夢実現のための絶えざる努力。イチローは修学旅行にも行かなかったというほどの禁欲的なひたむきさ。「身の程知らず」の望みをもつことが大切であることを改めて知りました。
  • 本日もありがとうございました。計画的にライフワークに取り組んでいる方々のお話でした。徳富蘇峰さんの、55歳~89歳の34年間で17万枚の原稿で「近世日本国民史」。明治の元勲たちへインタビューしたものを書いている。とのこと。歴史の教科書の元は徳富蘇峰なのかもしれない。と感心いたしました。また、本居宣長も、35歳~70歳まで、古事記伝。金子鷗亭さんの57歳~80歳「全国戦没者之霊」という標柱を書かれていたこと、白川義員さんは27歳~80歳まで天地創造と呼ばれる写真を撮っていたなど、また宮本輝さんの一年に2冊書けば50年で100冊、を目指しているなど、すばらしいお話の数々でした。白川義員さんの写真展など観てみたいと思いました。素晴らしそうですね。本日もありがとうございました。次回も楽しみにしております。
  • 幸福塾ありがとうございました。今回は、ライフワークを計画的に行った方のお話の紹介で大変興味深かったです。特に印象に残った内容は、白川議員です。20代から人生を計画して世界中の山を歩き、写真を撮ったり、写真集を出し、80代になってもつづけたということが、素晴らしいと思いました。私は、人生の長期の渡っての計画を立てることが難しいと感じていますが、一つ考え方として参考にしたいと思います。また徳富蘇峰が17万枚の原稿を書いたというお話を聞いて、驚きました。積み上げるとどのくらいの高さになるのだろう。どれだけの苦労があっただろうかと思いを巡らせました。他にも興味深い内容や皆さんの発表があり、また感想や意見を共有できたのでとても参考になり、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。次回も楽しみにしております。

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「名言との対話」8月13日。伊波普猷「深く掘れ己の胸中の泉、余所たゆて水や汲まぬごとに」

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年明治9年3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

沖縄県那覇市出身。士族身分の素封家に生まれる。中学校で校長排斥のストライキで退学処分。三高から東京帝大の言語学の第一期生として入学し、琉球語学を学ぶ。新村出の講義を金田一京助アイヌ語学)と聞いた。上田萬年の講義は鳥居龍蔵と聞いた。伊波は三高時代から琉球の歴史や文化に関心をもち、東大時代には沖縄の祭祀歌謡集『おもろさうし』の研究を始めている。

卒業後に沖縄研究を志して帰郷し沖縄県立図書館長としてつとめながら啓蒙運動をエネルギッシュに展開した。琉球史、宗教、音声学などの講演活動、読書会、子どもの会、婦人講話会、エスペラント講習会など実に多様な分野が対象だった。

1921年柳田国男との出会いによって、1924年に上京し沖縄研究に打ち込む。大二次大戦後の1947年に没した。享年71。

伊波の研究は沖縄研究を中心に言語学民俗学文化人類学歴史学宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の」とも称された。『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人アイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。

「沖縄歴史物語」で、日本の帝国主義と中国の夢の真ん中に沖縄があるとも語っている。伊波普猷琉球は言語などにみえるように、沖縄は日本文化の古層であり同じ民族であると主張し、民族の統一を積極的に進めるべきだと説いた。そして琉球の伝統文化の保存が行われた。伊波の沖縄学はアイデンティティの確立に強い影響を与えた。一方、近代日本の沖縄差別に対する批判が弱く、同化政策に力を貸したとの批判も起こっている。

浦添城跡の顕彰碑には「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれている。死後半世紀上たった1974年から1976年にかけて平凡社から『伊波普猷全集』全11巻が刊行された。

伊波普猷は「自覚しない存在は悲惨である」と語っている。歴史を学ばない民族の未来は暗澹としているということであろう。冒頭の言葉はニーチェの警句「汝の立つ所を深く掘れ、其處処には泉あり」を愛した伊波普猷が沖縄語に翻案した琉歌である。自分の源を深く深く掘れ。己の立つ場所を深く掘りきった人の言である。この人は沖縄の歴史と文化を研究し、沖縄の近代をみつめた人である。

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「名言との対話」3月15日。堀口大学「日本語の美しさが身にしみる」

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体堀口 大学1892年明治25年)1月8日 - 1981年昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人歌人フランス文学者

東京・本郷生れ。 大學という名前は出生時に父が帝大の学生であったことなどに由来。創作詩作や、訳詩集の名翻訳により、昭和の詩壇、文壇に多大な影響を与えた。1970年文化功労者。1979年文化勲章受章。

17歳。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に通う。生涯の友・佐藤春夫と出会う。一高入試に2人とも失敗し、永井荷風が文学部長をつとめており、小山内薫、野口米次郎、戸川秋骨らが教授陣いた慶応義塾大学文学部に一緒に入る。外交官の父から任地に呼ばれて、慶應を中退し、メキシコ、ベルギースペインスイスパリブラジルルーマニアと、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。画家のマリーローランサンや詩人のジャン・コクトーらとの交友があった。

ブラジルにいた1919年に創作詩集『月光とピエロ』を出し、帰国後の1925年には佐藤春夫に献辞を捧げた訳詩集『月下の一群』を刊行する。甘美な作風で、中原中也三好達治など若い文学者たちに多大な影響を与えた。

 「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」。「雨の日は、雨を愛そう、風の日は、風を好もう、晴れた日は、散歩しよう、貧しくば、心に富もう」

官能的な詩も多い。「拷問」というタイトルの詩、「お前の足元にひざまいて 何と拷問がやさしいことだ 愛する女よ 残酷であれ お前の曲線は私を息詰まらせる ああ 幸福に私は死にそうだ」。「帯」というタイトルの詩、「白鳥の歌は 死ぬ時。花火のひとみは 消える時。あなたの帯は 解ける時」。

1935年には島崎藤村が会長の日本ペンクラブの副会長に推される。堀口大学はの仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、実に300点を超えている。堀口大學全集 全9巻+補巻3+別巻1 が1981年-88年に刊行され、日本図書センターが2001年に復刻している。

10代から1964年に佐藤が亡くなるまで堀口と佐藤の二人の友情は続いた。堀口は友人代表で以下の挽歌を捧げている。

忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死に顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉じてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを

同い年の佐藤春夫は、二人を一卵性双生児と書き、挽歌で堀口大学はシャム兄弟と詠った。佐藤春夫の死から17年後に堀口は89歳で亡くなるのだが、NHK「あの人に会いたい」の最晩年の映像では、「日本語の美しさが本当に身に染みる」と語っている。外国語に堪能であった堀口大学は、翻訳を通じて日本語の美しさにほれ込み、そしてその美しさをさらに高めた人である。