・アメリカ大統領選:日本人は赤いアメリカ(内陸)を知らない。旅行の9割は青いアメリカ(東西の海岸線)。トランプ7000万票の本音は、後2-3回の選挙でマイノリティに転落する白人の焦燥、白人の6割強がトランプに投票するというホワイトナショナリズムの痙攣、アメリカの特徴である優位なときの思いやり、優しさが、ライバルになると嫉妬心、猜疑心で襲いかかえる「抑圧的寛容」で説明できる。それは外の中国、内のマイノリティへの行動に現れている。そして、孤立するアメリカは「束ねる力」を失いつつある。
・中国の五中全会:幹部人事なしで習近平は2022年以降第3期へで毛沢東化。「内外需循環」で2025年に1人当たりGDP3万ドル(現在の韓国レベル)と中間層を厚くする。2021年から2015年まで実質成長5%台。2020年代の後半には現在日本の3倍のGDPは7-8倍になる。しかし、香港、台湾問題などで華人・華僑7000万人が失望、他の国も警戒を強めている。「脱中国」の流れが加速しつつある。
・日本の外交構想力:米中2極ではない。米中共に「極」を形成できない。2020年1-9月の貿易総額。アメリカ14.7%、中国26.1%、中国を除くアジア27.8%(注目!)。政権は日米同盟強化という。軍事・政治はアメリカ、経済は中国。日本の立ち位置をどう考えるか、日本の主体性はどこにあるか。自立自尊の立ち位置。アセアンからはアジアの大国としての期待がある。成熟した民主国家、非核平和国家、技術を持った経済大国。
・敗戦から75年:忘れてはならないことがある。日本人の死者310万人(軍人230万人・民間人80万人)。アジア・太平洋の死者2262万人(中国1321万人・アジア912万人、アメリカ29万人)。欧州をふくむ全世界の死者5565万人。
・降伏文書調印(1945年9月2日)・東京湾上のミズリー号。マッカーサーは使命感(日本人の奴隷化からの解放)とドラマ化(サスケハナ号の星条旗。英国のパーシバル将軍の参加、、)の好きな極端な人だった。東久邇総理、近衛副総理。天皇に代わる日本全権の重光葵外相が署名。「願わくば故国の末に栄いきわが身さげすむ人の多きを」。
・袖井林二郎「マッカーサーの2千日」とジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」。日本人は物量(経済)の敗戦と総括した、政治の敗戦とは考えなかった。戦後は経済で復活していく。与えられた民主主義、受け身の日本国憲法という風潮があるが、、。尾崎行雄という存在に注目。25回当選、63年の議員生活、憲政の神様。「民主主義読本」には、本当の民主主義を確立していたら戦争は起こらなかった、大きな犠牲を払って手に入れた民主主義とある。1941年「依らしめて知らしめざるをよしとする人の招ける今日の国難」、1945年「全世界一家のごとき狭き世に独り栄える道のあらんや」。
・ハワイ:洋上のアリゾナ記念館。その近くに戦艦ミズーリ号記念館。
・サンフランシスコ平和会議と講和条約:わずか6年後の1947年に国際社会に復帰。1949年の共産中国の成立、1950年6月から51年7月の朝鮮戦争で局面が変わった。全面講和(ソ連、中国を含む)ではなく、多数講和(西側陣営49カ国)と締結。吉田茂は日米安保も締結。日米安保の二重性。冷戦後の安全保障と軍国主義復活を抑える占領政策の継続(ビンの蓋論)。吉田は「吉田体制」論者ではなかった。「日米安保は暫定的な措置。柔らかい選択肢を研究せよ」。1954年には「英連邦に入るべし」、アメリカの独善を避けバランス、相対化を言っている。自立自尊の人だった。
・サンフランシスコ講和条約:インドの目線。参加せず。「日本駐留中のずべての国が引き上げるならサインする」。わずか6年前まで白人帝国主義を追い払うと言っていたではないか。翌年にインドは単独講和。それが1955年のバンドン会議への参加につながる(次回のテーマ)。ダレス長官「公正な関係を築けなければ全アジアからアメリカは放逐されるだろ」。インドが見つめている。それがボディーブローのように効いている。
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「名言との対話」11月15日。堀淳一「地図さえ持っていれば、どんな道の土地でも、自由に歩き回ることができ、思うところへ行くことができる」
堀 淳一(ほり じゅんいち、1926年〈大正15年〉10月6日 - 2017年〈平成29年〉11月15日)は、日本の物理学者、随筆家。北海道大学教授。専門は理論物理学。
京都府生まれ。父は物理学者で北海道帝国大学教授の堀健夫で、父の北大着任に伴い、1935年から北海道札幌市に在住。札幌一中を経て、北海道大学理学部卒業。同低温科学研究所、理学部助教授を経て、北大教授に就任。
専門は数理物理学と固体物理学で、「レモンティとモーツァルトで一日が始まる」という生活は良き時代の教養人を偲ばせる人柄だった。
小学校の頃から地図の魅力に魅せられ、1960年代から地形図を手に全国の旧道、廃線跡、産業遺跡(産業遺産・遺構・廃墟)などを歩く旅を開始する。1972年『地図のたのしみ』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 地図と旅の愛好者の集まりコンターサークルsを主宰する。『ブラタモリ』などに代表される地図散策趣味の先駆者といえる紀行作家であり、晩年まで各地を精力的に歩き続けた。
『地図の楽しみ』(河出書房新書)は、私も発刊当時手にしたことがある。今回改めて再読した。小学生時代に「関西で地理の教師をしていた叔父」から旧制中学の社会科の地図帳をもらったことが地図に本格的にのめり込むきかっけとなった。その叔父とは、朝永陽二郎と記している。「あとがき」に、本書の胚子を少年の私の中にはぐくんでこれた叔父に、この本を捧げたいとあるもしやと思って調べてみると、『回想の朝永振一郎』の中に、この名前の人が「少年のころの兄の思い出の断片——その環境を中心に」というエッセイを書いているのを見つけた。ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の弟だったのだ。
、電車の路線図から始まる地図を友とする生活。鉄道案内図、地形図、迅速図、、、、、。地名の不思議の項では、後志(しりべし)、未明(ほのか)、雪車町(そりまち)、十八女(さかり)、雪洞(ぼんぼり)、、などを挙げ、町村合併で平凡な名前になっていくのを嘆いている。知っているところは20万分の一、初めて歩くところは5万分の一か2万5千分の一の地形図を持っていくのが習慣だった。札幌は変化の著しい町の一つで、市街の北の果てにあった農科大学であった北大は市街に取り囲まれていると書いている。
年季の入った地図をともにした旅で得た知識がちりばめられていて、読んでいて楽しい本になっている。一人の市民、地図愛好者、使用者として、つねづね考えたり感じたりしていることをまとめたものであるというが、そのフィールドワークから得た知識の厚みは尋常ではない。
写真を撮った場所、経路を図上に記すと正確な記録となる。余白にメモや感想を記しておく。鉄道線を通った日付、列車番号を書き込んでおく。帰ってから見聞を反芻し、記録を補足して、旅は一区切りになる。そういう旅をしたのだ。日本各地はもとより、長く滞在したイギリスの地図事情も詳しい。時代や国柄で違う地図に触れながら、歴史や文化を探るユニークな文化論である。
「地図と鉄道のブログ」という同好の士のブログに、2017年12月4日に「堀淳一氏を偲ぶ」というエッセイがあった。堀は11月15日に亡くなったからその直後に書かれたものだ。そこには11月初旬に北海道で会ったばかりとある。「御年91歳だが、頭脳は常に明晰で、収集した膨大な数の地図を肴に、四方山話はいつまでも尽きなかった」との記述からは、34歳から20年近く経った1980年の55歳での北大退官後も37年間にわたり地図の旅を楽しんだことがわかる。10歳あたりから91歳で亡くなる直前まで、半世紀を超える地図を友とした旅をしていたことに感銘を受ける。まさにこれがライフワークというべものだろう。かくありたいものだ。
『地図の楽しみ』には、地形図一枚の値段はコーヒー一杯の値段と大体同じと書いてある。今はどうなのだろうか、地図を一枚買ってみよう。