『50歳からの人生戦略は「図」で考える』出版記念セミナーの打ち合わせ。池袋天狼院書店は「面陳(メンチン)」、新宿紀伊国屋は「平置き」。

池袋駅直結のエソラビル2階の天狼院書店。面陳(メンチン)。

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 8月16日の出版記念セミナーの打ち合わせ。

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店長の永井さん。プレジデント社の販売部の森田さん、編集者の阿部さん。 

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終わって、阿部さんと4階の梟(ふくろう)書房・茶房でコーヒーを飲みながら歓談。

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帰りに新宿の紀伊国屋書店をのぞく。2列の「平積み」だった。

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デメケンミーティング:11名。

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「名言との対話」7月12日。高木聖鶴「平安の古筆の域に達するにはあと100年必要だな。200歳まで一生懸命練習しないと、平安時代の古筆には迫れない」

高木 聖鶴(たかぎ せいかく、1923年(大正12年)7月12日 - 2017年(平成29年)2月24日)は、日本の書家。

岡山県総社市生まれ。24歳、岡山を拠点に朝陽書道会を創設した内田鶴雲に師事する。鶴雲の師の安東聖空譲りの「元永本古今集」の書風を身につけた後、「一条摂政集」「高野切」「針切」「香紙切」など古筆の森に分け入り、王朝の雅を手中に収めた。書名の鶴聖は師とその師の名前からとったものだ。27歳、日本美術展覧会日展)に初入選する。その後は書の世界で大活躍をする。1975年からは日本書芸院理事、1984年からは読売書法会理事に就くなど、日本の書の発展に大いに貢献した。

書家として日本や中国の古筆、名筆を研究し、美しく気品ある仮名を追求、独自の書風を打ち立てる。また戦後の仮名書家たちが追い求めた大字仮名にも新境地を開いた。

2006年に文化功労者に選ばれた際には「かな書は文字としての意味を伝えるだけでなく絵画のような造形美を探求するもの。墨と筆の日本の文化です。書は私のすべて。後世にいい作品をのこすため全力投球する」と述べている。

2013年の高倉健本庶佑らと同時の文化勲章受章時の記者会見では、実際に書を書く姿を見せている。

「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」(新古今和歌集)や、斎藤茂吉の「あかあかと一本の道とほりけりたまきはる我が命なりけり」を墨で書いている。特に茂吉のこの歌が好きだと語っている。自分の心境に近いのだろう。

以下、日経ビジネスのインタビュー記事から。

・私の人生は、独学による、「雑学の集積」とも言えます。
・その時に解けんかった疑問も、二年、三年と経つと、ふとした瞬間に解けることがあります。難問も自力で突破出来る。“学び”というのは、そういうことではないかと思います。

・他の芸術も、例えば文学、絵、彫刻、工芸にしても、全てが“同根”です。だからそういうことも吸収すれば、肥やしになります。専門以外のことでも理解を深めれば、「幅」が広がります。

・あらゆる能書から、古筆の形、筆跡、書いた人の息遣いまでを学ぶようにしています。
・自然からもヒントをもらいます。
・日本の文字(仮名)の根元は漢字ですから、漢字のことを知らんと、中国の古典を勉強せんと、良い仮名にはなりません。

高木聖鶴は歴史上に輝く古筆と、現代仮名書きを踏破し、その上で独自の書風を確立した人である。「独学と雑学」と本人は謙遜しているが、大自然や他分野、中国古典などあらゆるものに学んだ「博学」の人となったのだ。その学ぶ姿勢が、「あと100年」、「200歳まで」という言葉になった。享年93。