東京国立近代美術館『隈研吾展「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」』

東京国立近代美術館の『隈研吾展「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」』を先日みてきました。

 今話題の「東京五輪2020」のメインスタジアムを設計した時の人です。東京在住者にとって身近なものでは、他には根津美術館や、丸の内のKITTEが隈の作品があります。

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  • 国立競技場のプロポーザルでは伊東豊男と隈の両者が競った。伊藤は主要構造部に木を使おうとし、隈は二次構造に木を使った。深いの際太陽光をカットすると同時に自然の風を取り込む。巻の上部には東京の野草が30種余り植えられている。そのことによって外苑の森と湖の競技場と柔らかくつなぎ合わせたのである。馬が用いた木材は日本の47都道府県の様々な色合いと緑を持つ子下剤を用いている。日本の多様性を示すスタジアムである。塩対応した大屋根の下には木漏れ日で満たされた森のような空間が生まれた。その下にモザイク状の椅子を配置し落ち葉が敷き詰めてあるような柔らかな観客席が生まれている。 大きなスタジアムを小さい器の集合体としてデザインをした。日本の伝統的建築の様式を用いて。サスティナブルの循環思想を現代の巨大建築にも適用した。ローカルな生で巨大なスタジアムを作ったのである。
  • 800年後の方丈庵と言う作品が目についた。鴨長明の没後800年を記念した現代のモバイル型住宅である。透明な超軽量の移動式住宅が出来上がっていた。
  •  JPタワーKITTE。東京中央郵便局の内装リノベーションも担当している。
  • 和の巨匠、吉田五十八の第4代歌舞伎座の後継たる第5代歌舞伎座のデザインを担当した。屋上日本庭園、隣接する形でカフェとミュージアムを併設してして、劇場の上部にも都市の回遊性を立体的に延長させた。地下鉄と直結する地下広場は通常は屋台を中心とする賑わいの空間であり災害時には防災広場として機能するように設計されている。

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この企画展は5つに分かれていた。孔。粒子やわらかい。斜め。時間。隈は世界中を旅行するときにiPhoneで写真を撮る。

孔: モニュメント的建築(オス的建築)に対して洞窟的建築(メス的建築)に分類される。

粒子:粒子があるからこそ、世界に住むことができる。粒子のサイズに於いてより小さなものを追求しより自由を希求するのだ。

やわらかい:猫は素材の柔らかさやざらざら感に対し極めて敏感である。仮説的なものは柔らかい。

斜め:写真にして造園家の小堀遠州。様々な斜めのデザインを作った。公家文化と武家文化のアウフヘーベンであった。斜めとは折衷でも止揚でもなく農業以前の大地への回帰である。

時間:物をボロくsるるための時間概念。未来にも過去にも自由に働くかけることができる。

小さくする。粒子。柔らかくする、斜めにするという手法はボロくすることである。それはエイジングと言う手法と同様だ。

コロナ禍は、ハコが人間を少しも幸福にしないと言うことを教えてくれた。猫ちゃんの建築5656原則。半ノラ猫にiPhoneをつけて自由にさせた。多くのヒントを与えてくれた。近所にいくつかの拠点を持つ半ノラ猫的な習性。ざらざら感。隙間。猫は地形のかすかな変化に応答してふらふらと揺れながら街を歩く。自由であり個性的である。「猫の環世界」から考える都市計画。地に足をつけて生きる多様な主体の視点から見た都市計画。猫の目線に立つ。

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次の本の締め切りは7月末ではなく、8月末。

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明日から始まる東京五輪は日本の「没落と衰退」の象徴となるであろう。

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「名言との対話」7月22日。浜口庫之助「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う]

浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本の作曲家、シンガーソングライター。

兵庫県神戸市生まれ。音楽を愛する一家に生まれ、5才で楽譜を読めるようになる。東京府立第四中学校卒業。一高受験に失敗し働く。後に青山学院大学商学部を繰り上げ卒業する。ジャワ島で農園経営をする商社に就職しマランに赴任。帰国後は音楽活動に入り、ラテンバンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。

1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を「演奏」するのではなく日本の曲を「創作」することこそが重要だと覚睡する。

40歳、「日本人として誇れる日本の歌を作りたい」と、すべてを投げ捨て作曲家への道を歩む。30代の新人作詞家・星野と、40代の新人作曲家・浜口は、レコード会社の指示で無理矢理コンビを組むことになる。育った音楽環境が全く違う二人であり、戸惑もあったが、「黄色いさくらんぼ」のヒットが生まれる。

NHKアーカイブス「人物録」の映像をみた。1960年に守屋浩が歌って大ヒットとなった「有難や節」(作詞・作曲)について語っている。「腹が減ったらおまんま食べて、寿命尽きればあの世ゆき」という驚くべき歌詞とリズムだった。私の子ども心に響いた記憶がある。安保騒動で世の中が騒然としていた雰囲気を吹き飛ばすような歌を作ろうとしたのである。世相を感じ、つかむ力が飛び抜けていた。

日本の詩に西洋音楽のリズムとメロディーをドッキングさせ、ホップで明るい曲想が特徴だ。西郷輝彦「星のフラメンコ」、マイク真紀「バラが咲いた」もヒットしていく。石原裕次郎との出会いがあり、「夜霧よ今夜も有難う」「粋な別れ」「恋の町札幌」などの名曲をつくっていく。浜口庫之助は「ハマクラ」と呼ばれた。時代をつかみ、大衆のための歌づくりをする、「ハマクラ・メロディ」の誕生である。

僕は泣いちっち(歌:守屋浩)(1959年)。涙くんさよなら(歌:坂本九、ジャニーズ、和田弘とマヒナスターズ、ジョニー・ティロットソンの競作)(1965年)。愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)。星娘(歌:西郷輝彦)(1965年)。星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)。バラが咲いた(歌:マイク真木)(1966年)。夕陽が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1966年)。風が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1967年)。夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎(1967年)、吉田拓郎(1977年))。粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)。エンピツが一本(歌:坂本九)(1967年)。空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)。恋の町札幌(歌:石原裕次郎(1972年)、、、、。

こうやって並べてみても、その多彩さに驚いてしまう。作詞作曲した歌も多いのも特徴だ。そしてほとんどは今でも私は歌えるから、心に長く残る名曲だらけなのだ。

浜口庫之助は40歳という遅い出発で、しかも比較的若い73歳で亡くなっているにもかかわらず、生涯で5千曲をつくっている。古賀政男古関裕而も5千曲であり、歴代最高クラスの作曲数である。最近では2020年9月20日放送のNHK「ザ・偉人伝」をみてこの作曲家への理解が深まった。

妻と死別した10年後、華麗なる恋愛遍歴に終止符を打ち、女優・渚まゆみと結婚し、57歳で愛娘が誕生し、子育てに目覚める。晩年にはがんが発覚し、凄まじい闘病生活を経て、島倉千代子に「人生いろいろ」を贈っている。1990年に叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退している。

「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う」というハマクラは、「流行歌は作るものではなく、生まれてくるもの」との名言も吐いている。大衆で構成された時代という怪物が要求する歌、口ずさみたくなる歌は、必ずあらわれる。ハマクラは、「流行歌」という言葉をよく使っている。時代感覚に優れた人だったのだ。とらえどころのない時代の心にヒットした歌が流行する。歌というものは長く生き続けるとつくづく思う。作曲家という職業は時代を生きる人々の心を描き出し、生きる勇気を与える神聖な仕事だ。