国立近代美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展

国立近代美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展。

「彫刻の宇宙」「かろみの世界」「石の庭」の3勝立ての本格的な企画展だ。石の彫刻とちょうちんの展示を堪能した。

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イサムノグチの言葉を聞こう。

  • 自然石と向き合っていると、石が話を始めるんですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。近頃は彫ったりm磨いたりする量が少なくて済むようになりましたね。
  • 自然が、木や石ががどのように一体となっているか見る、これは命を鑑賞することです。彫刻がこういうものの一部としてあるのは、私にとって大いなる喜びです。
  • 私たちはみんな発見の過程にいるわけだ。

安藤忠雄は、イサム・ノグチの最高傑作は、未完に終わった「原爆死没者慰霊碑」を挙げている。地上4mの高さで屹立する重厚な黒御影石のアーチ。死没者名簿を納めた地下へと続く。この地中の空間は、生命を育む子宮、再生の象徴であった。

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 図録の最期の松岡正剛の解説がいい。さすがだ。

  • 重い石に興じたいイサムは、他方では軽い「あかり」にも興じた。勁い石とと柔らかい光の両方にアーティストとしての生涯を捧げたことは、イサムノグチの真骨頂だった。
  • すばらしいコラボレーターとの共感を自在に生かしたアーティストだった。選んだ相手が格別だ。…、その都度時代に応じて相手を選び、場所と素材に向かい、その制作作業を通してなにがしかの新たな「発見」に取り組んだ。その発見はことごとく「関係の発見」だった。
  • 私は初めて気にいった「あかり」を買って、仕事場の一隅に置いた。暖かいものに包まれた。ふいに気がついた。これは拉致されないのだ。そこで数日後にまた買って、書斎にぶらんと吊した。そこで気がついた、イサムノグチの「上あかり」が一切の光源を見えなくしているということを。そして合点した。これって「石の光」だと言うことを、…。

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「名言との対話」7月23日。磯崎新「境界線、いいかえると閾の所在を見つけること」

磯崎 新(いそざき あらた、1931年昭和6年)7月23日 - )は日本建築家

大分県大分市出身。 1954年東京大学工学部建築学科卒業。 59年同大学院修了。丹下健三氏に師事。 1963年独立。東京大学ハーバード大学客員教授、国際コンペの審査員などをつとめる。 1970年代から 80年代にかけて近代建築批判を展開、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」などさまざまなキーワードを提示して日本建築界をリードした。

主要作品は大分県医師会館 (1963) 、群馬県立近代美術館 (74) 、北九州市立美術館 (74) 、北九州市立図書館 (74) 、古典様式を用いてポスト・モダン建築として注目を集めたつくばセンタービル (83) 、水戸芸術館 (90) など。

ロサンゼルス近代美術館 (86) 、バルセロナのサンジョルディ・スポーツ・パレス (90) など国際的に活躍。日本建築学会作品賞 (67、75) 、芸術選奨新人賞 (69) 、RIBA (イギリス王立建築家協会) 金賞 (86)、,朝日賞 (88) など多数受賞。著書に『空間へ』 (70) 、『建築の解体』 (75) 、『建築の修辞』 (75) 、『建築という形式』 (91) などがある。  

磯崎新の思考力』(王国社)を読んだ。

師の丹下健三がつくった広島の原爆慰霊碑についての記述がある。アメリカは、慰霊碑を作るのは反対。日本はアメリカがアメリカ人のつくったもので死者の魂が慰めらえるか、と慰霊碑をつくるのは許さない。イサム・ノグチははずされる。丹下は「平和への祈り」にシフトしていく。その結果が広島平和記念館だ。

「工事中の広島ピースセンター」という丹下健三の撮った圧巻の写真がある。広島平和記念館の位置はかつて墓地だった。写真の下半分は墓碑が林立する墓場で、その先には建築中の平和記念館がある。原爆の死者たちとその先祖がいるそこに、あらためて死者をまつる施設をつくろうとする建築家の視点がわかる。磯崎はが学生のころ、この撮影者と同じ位置に立って、生と死が重層してみえる過程にかかわる仕事があると知った。そして丹下に弟子入りする。

この本では、丹下健三論が多い。弔辞も弟子を代表して磯崎が読んでいる。磯崎は近代国家日本の最初の建築家であり、最後の人でもあった。ピロティの高さ、プロポーションの長方形は畳や障子に近いという分析をしている。丹下は20世紀の廃墟に直面した世界でただ一人の建築家だという。

磯崎は大阪万博丹下健三の大屋根のアイデアをだした。そこに岡本太郎太陽の塔で大屋根をぶち抜くと主張して大騒ぎになった。磯崎はアナクロなデザインで驚く。理解不能な不気味な姿を磯崎は、日本の地霊だと感じる。結果的には太陽の塔だけが生き延びた。1970年の大阪万博は日本の最後のイベントだ。国家的祭典は終わったと喝破する。愛知万博も意義を認めない、そして本日開会式を迎えた「東京五輪2020」も同じようにおもっているのではないか。

9・11世界貿易センターに自爆機が突っ込み崩壊させる。テクノロジーの極致といえる産物が同じテクノロジーの別の産物によって破壊されたとみる。その結果、「グラウンド・ゼロが冗長性(リダンダンシー)を増加させる?」との予想もしている。「10年後、上海と東京には大きな差が現れる」「首都移転ーー志なく動機も見えず」、、。
磯崎の作品は国内、海外にも多い。私がみたことがあるのは、二つの建物だ。福岡相互銀行本店は、福岡のまちに降り立つときはかならずみている建物だ。大分ビーコンプラザは2005年に別府市で医師会設立の看護専門学校50周年記念総会で、医師・現役看護師・看護学生ら700人を前に大ホールで講演したときに、そのスケールの大きさに驚いた記憶がある。

磯崎新は建築そのものもいいが、その根底にある思考とそれをあらわす言葉も心に刺さる。この本の「あとがき」に「真に今日的な文化上の問題の所在は、さまざまな専門化された領域間の境界線上に発生しており、この境界線、いいかえると閾の所在を見つけること、そこに錯綜する視線をときほぐすこと、それがいちばん緊張感の生まれるところで、私の思考もここに集中している」と書いている。

境界線、閾、錯綜する視線、緊張感、思考の集中。分断化された専門領域をまたぎ、横断的、総合的、全体的な把握と思考の営みが求められているという主張には共感する。

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