新宿・渋谷を周遊ーーサザンタワー、Bukamura、TOHO。

新宿・渋谷を周遊の日でした。都内を動くと歩数が増えます。今日は1万5千歩。

新宿:サザンタワーの20階で、U社のプロジェクトの打ち合わせ。3月。5月。最終は9月から10月あたり。

渋谷:東急Bunkamuraで「ミロ展-日本を夢見て」。20世紀を代表するアーチストの一人。ジュアン・ミロ(1893-1083)は日本と縁が深い。浮世絵や陶芸などの日本の芸術作品に刺激を受けており、生涯で二度来日している。日本への紹介は詩人の滝口修造である。例によって「図録」を購入したので、読み込むことにする。


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午後は渋谷:TOHOの喫茶で橘川さんと情報交換。

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今日のヒント。「致知」4月号。横田南嶺臨済宗円覚寺派管長)。

  • ラフカディオア・ハーン「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」
  • 中村元の墓に刻まれた釈迦の言葉「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安泰であれ。一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあって他人を軽んじてはならない。互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。この慈しみの心づかいを、しっかりとたもて」

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「名言との対話」3月10日。吉田吉蔵「一針入魂」

田吉蔵(よしだ きちぞう 1906年3月10日ー1994年?月?日)は、日本の経営者。

神奈川県寒川町生まれ。12歳でカバン職人の道に入る。17歳、関東大震災で「カバンとは第一に荷物を運ぶ道具でなけれいけない」ことを身に沁みる。29歳、独立し吉田鞄製作所を起業し、「使うほどに馴染み、永く愛用していただけるカバン」づくりを決意する。

1953年、ファスナーを使ったエレガントカバンが大ヒットする。1954年、美智子上皇后が未婚の頃にテニスのときに持ち歩いた白いカバンを使う。1962年、自社ブランド「ポーター」を発売。1976年、黒澤明監督「天国と地獄」で吉田カバンが使われた。走っている特急の窓から身代金を入れたバッグを落として受け渡すというシーンがあるが、そのカバンが吉田のカバンだった。

1976年には70歳で勲五等双光旭日賞を受賞。1985年、創業50周年。

田吉蔵は社業が安定すると、長男に経営を譲り、70代でカバン職人に復帰する。手縫いの丁寧なカバンの製作に励んでいる。このあたりのことは、次女の野谷久子さんが詳細に語っている。カバン職人であった吉田吉蔵の言葉を述べていて興味深い。

吉田カバンの中に、革手縫いを残すこと」「ハンドルはカバンの顔だ」「カバンという存在は、持つ人の体の中に寄り添いながら自然に馴染んでいくことでようやく完成する」「美しいものをたくさん見ろ」「楽しく出来る手縫いの世界を広めたい」。

品川駅の構内に吉田カバンの「PORTER STAND」が2014年にできた。品川の多摩大大学院に通うたびに、その店の前を通る。時々は、これが有名な吉田のカバンかと思って、手に取っていた。

田吉蔵は、12歳から亡くなる88歳まで、基本はカバン職人だったということだ。手縫いの一針一針に魂を込めるというのが「一針入魂」だ。野球で投手がいう「一球入魂」や、画家の千住博の「一筆入魂」を思いだす。職人の世界だけでなく、どの道も「入魂」精神でやっていかなくてはものにならないということだろう。職人という言葉を、職業人を略したものと考えたらいのではないか。すべからく人は皆、職人である。私は「一文入魂」「一図入魂」でいこうか。