「百花 for Noriko Sudoh」展(丹沢湖)を堪能。足柄峠の万葉公園で万葉歌碑。中川の箒杉(樹齢2000年)。

丹沢湖の落合館で開催中の「百花 for Noriko Sudoh」展。

須藤一郎さんの亡き奥様の追悼企画展です。ご本人から丁寧に全作品を説明いただきました。

 


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足柄峠の萬葉公園で万葉歌碑7基を確認。

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中川の箒杉。樹齢2000年。弥生中期、イエス・キリストの時代から命を永らえている杉。

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「名言との対話」3月10日。加藤文太郎「飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ない」

加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年明治38年)3月11日 - 1936年昭和11年)1月5日)は登山家

兵庫県新温泉町生まれ。理数系に優れていた。高等小学校を卒業し、神戸の三菱内燃製作所(三菱重工の前身)の製図修業性制度で5年間学び、三菱マンになる。仕事の傍ら、工業高校の夜間部を卒業する。

1923年頃から本格的に登山を始める。加藤はありあわせの服装と地下足袋という服装で登山をする独特の存在であった。

1928年頃からは、日本アルプスの積雪期の単独登頂に挑んだ。槍ヶ岳冬季単独登頂、富山県から長野県への北アルプス単独縦走に成功する。単独登攀の加藤、不死身の加藤と呼ばれた。

1936年には吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑んだ。猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる。結婚後、1年足らずだった。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。

新田次郎著『孤高の人』ノモデルになった。新田次郎は登山家であり、加藤という男に興味を持った。この本は私も読んでいる。1990年、故郷の浜坂町に新田次郎文学碑が加藤文太郎を語る会を中心に建立された。作家の藤原てい新田次郎夫人)が招かれ除幕された。そして遭難現場にはケルンが建った。

単独行の加藤文太郎は、自身では「スキーも岩登りも下手」という。正統派のスキーではなく、岩登りも自分流でやっていた。また山登りのスピードがあまりに速く、他の人との行動では迷惑をかけるというのが真相であった。

休日ごとにリレー式で歩き、読図力を養うというトレーニング方式で自己を鍛錬した。会社の行きかえりに山を一つ、二つ登ってくるというスタイルだった。遭難現場に「ケルン」が建てられた。

彼の登山の真価は、部分的な山稜の初縦走ではなく、長距離の困難な積雪期縦走というところにある。また、文章がだんだんうまくなり、彼の文章こそが「本当の山岳文学ではなかろうか」というK校・I氏の評価もある。

眠るより歩いた方がよい。腰をおろして休む場合は、眠り込まないようにコッヘルの上で休め。危険を防ぐための知恵も加藤の書く文章にある。

加藤はいずれヒマラヤ登山に日本が挑むときのために、技術を磨くだけでなく、遠征費用として当時の金で3000円を貯めていた。自身が挑戦するつもりだったのであろう。

異能の単独行者、国宝的存在といわれたが、『単独行』(ヤマケイ文庫)を読むと、「飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ない」と述べている。そして「単独行者よつよくなれ」とのメッセージも著書の中で発している。

案内者をつけたり、パーティを組んだりするのは安全のためである。しかし、加藤は単独行は危険が少ないという。あらゆる危険を前もっての準備でつぶしていくからだろう。

事前にリスクを除去するために力を注ぐから、起業家はもっとも保守的な人びとである、とドラッカーが喝破していて、その慧眼にうなったことがある。加藤の考え方は、ドラッカーと同じであった。危険を前もって除去するのである。つまり、危険を冒さない人種が、ほんとうの単独行者なのだ。

加藤文太郎の言葉は、危険がないということではなかった。「危険が少ない」だった。30歳という若さで亡くなったのは日本山岳会にとっても痛恨事であった。