「人物記念館の旅」1000館ーーおすすめは? 「百説」「巡礼」「日本探検」「ココロの革命」

学生時代以来、海外旅行は梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」を確かめる旅を指針とし、40ヵ国ほどを旅してきました。

国内旅行はどうしようか。自然、景色、そして温泉とグルメではものたりない。その結果、仙台時代に故郷中津の福沢(諭吉)記念館を訪ねた折に、全国各地に点在する「人物記念館の旅」をすることを思いつきました。それから17年の歳月がたっています。

100館を超えたとき、「百説」という言葉を思い出しました。どんなことでも100続けると、入門というか、卒業というか、そういう地点に立つという意味です。確かにそのとおりでした。入門後も「自分は何をやっているのか」と自問しながら旅を続けました。200館を超えたあたりでは、これは偉人の聖地をめぐる「巡礼」という考えが浮かびました。一つ一つをめぐるたびに、心が洗われていく感覚があります。

近代、現代の偉人を顕彰する人物記念館が多いのですが、この旅は、日本と日本人の再発見の旅であり、「日本人の精神」「日本人のココロ」を訪ねる旅になっています。人物記念館の旅は、「聖人巡礼」です。

この旅の中で「日本には偉い人が多い」という誇りを持つとともに、「人は必ず死ぬ」という事実を知り、人生は有限であることが実感としてわかりました。

さて、「人物記念館の旅」をしているというと、「印象に残った記念館は?」「おすすめは?」「ベスト5は?」などとよく聞かれます。訪問して後悔したところはなく、どの記念館もいいのですが、思い切ってざっと200館近くをあげてみました。

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youtube「遅咲き偉人伝」の録画「グランマ・モーゼス」「森光子」

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「名言との対話」6月5日。富本憲吉「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年明治19年)6月5日 - 1963年昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家

奈良県生まれ。東京美術学校に入学し建築を学ぶ。ウィリアム・モリスの工芸思想に感銘を受け、卒業を担保した上で、在学中にロンドンに私費留学する。ヴィクトリア&アルバート美術館に通い、アート・アンド・クラフツの作品のデッサンの日々を送る。

1910年に帰国。英国から来日中のバーナード・リーチの影響を受け、陶芸に関心が高まる。故郷の奈良に窯をつくり、独学で技術を磨く。白磁の作品作りに成功する。この時代は「大和時代」と呼ばれる。

1926年には東京世田谷に移り窯を築く。この「東京時代」に評判をえる。また民芸運動のリーダーであった柳宗悦と交流する。1944年には東京美術学校教授に就任するが、戦後の1946年に辞任し京都に移る。この「京都時代」に、ほどこした色絵に金と銀を同時に焼き付ける「金銀彩」を完成させた。

1950年、京都市美術大学教授。1955年には「人間国宝」(「色絵磁器」保持者)に認定される。1961年、文化勲章。不思議なことに、1963年3月に定年退官、5月に学長に就任し、6月に78歳で死去している。

富本憲吉は、建築という分野から、陶芸の道に進み、日本近代陶芸の巨匠となった。美術として陶芸を究めるという姿勢は、柳宗悦らの民芸運動とは距離があった。富本は陶芸を職人仕事ではなく、芸術家として向き合ったのである。

没後に『わが陶芸造り』が刊行された。これを題材とした2020年のシンポジウムの動画をみた。若い時代にモリスから影響を受けた、手仕事の大切さ、人間の労働の貴さと楽しさ、丁寧な仕事ぶりなどが専門家たちから語られている。また赤絵の下地に金銀を施した作品を解説する動画も鑑賞した。

富本には「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」という言葉がある。実際、遺言には「骨は灰にして加茂川に流してしまうべし」とあった。家族はそういうわけにもいかなかっただろう、先祖代々の墓地に石塔をたてている。

「作品だけが墓である」には芸術家の覚悟がみえる。これほどの決意で作品に立ち向かっていたことに感銘を受ける。こういう厳しさは他の分野のトップの人たちにもみえる。」

作家の中野孝次を思いだした。「わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。」(遺書。「ガン日記」より)。また私生活を明らかにしなかった俳優の渥美清なども同じ考だったのだろう。

著作、映像、作品などの違いはあるが、創造者を自認する人たちには墓は必要ない。創造物自身が墓なのである。