学生時代以来、海外旅行は梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」を確かめる旅を指針とし、40ヵ国ほどを旅してきました。
国内旅行はどうしようか。自然、景色、そして温泉とグルメではものたりない。その結果、仙台時代に故郷中津の福沢(諭吉)記念館を訪ねた折に、全国各地に点在する「人物記念館の旅」をすることを思いつきました。それから17年の歳月がたっています。
100館を超えたとき、「百説」という言葉を思い出しました。どんなことでも100続けると、入門というか、卒業というか、そういう地点に立つという意味です。確かにそのとおりでした。入門後も「自分は何をやっているのか」と自問しながら旅を続けました。200館を超えたあたりでは、これは偉人の聖地をめぐる「巡礼」という考えが浮かびました。一つ一つをめぐるたびに、心が洗われていく感覚があります。
近代、現代の偉人を顕彰する人物記念館が多いのですが、この旅は、日本と日本人の再発見の旅であり、「日本人の精神」「日本人のココロ」を訪ねる旅になっています。人物記念館の旅は、「聖人巡礼」です。
この旅の中で「日本には偉い人が多い」という誇りを持つとともに、「人は必ず死ぬ」という事実を知り、人生は有限であることが実感としてわかりました。
さて、「人物記念館の旅」をしているというと、「印象に残った記念館は?」「おすすめは?」「ベスト5は?」などとよく聞かれます。訪問して後悔したところはなく、どの記念館もいいのですが、思い切ってざっと200館近くをあげてみました。
- 福沢諭吉。司馬遼太郎。吉田茂。岡本太郎。長谷川町子。古賀政男。朝倉文夫。杉原千畝。森鴎外。会津八一。坪内逍遥。松本清張。遠藤周作。宮沢賢治。澤田美喜。山田かまち。寺山修司。石ノ森章太郎。渋沢栄一。横山大観。羽仁もと子。武者小路実篤。正岡子規。太宰治。河井寛次郎。小泉八雲。安岡正篤。夏目漱石。川田龍吉。林芙美子。手塚治虫。牧野富太郎。吉行淳之介。白洲次郎・正子。吉川英治。原三渓。西村京太郎。渡辺淳一。平櫛田中。中川一郎。賀川豊彦。西田幾多郎。水木しげる。川喜多長政・かしこ。小林一三。相田みつを。高田屋嘉兵衛。大岡信。土屋文明。阿久悠。大宅壮一。北原照久。塙保己一。嘉納治五郎。菊池寛。伊丹十三。安藤百福。入江泰吉。久保田一竹。安藤百福。壷井栄。藤城清治。五十嵐健司。土門拳。土屋文明。太田黒元雄。角川源義。中原中也。坂本九。小泉八雲。良寛。新川柳作。出口王仁三郎。渡辺崋山。森鴎外。藤沢周平。吉田松陰。
- 徳富蘆花。大岡信。土井晩翠。吉野作造。斎藤茂吉。熊谷守一。大仏次郎。大山康晴。柳宗悦。芹沢銈介。岩崎久弥。大隈重信。池波正太郎。北島三郎。徳田秋聲。石坂洋次郎。白瀬のぶ。矢口高雄。河井継之助。室生犀星。山本五十六。吉田松陰。松下幸之助。明治天皇。尾崎行雄。金田一春彦。いわさきちひろ。戸田城聖。中川一政。根津嘉一郎。野口英世。大倉喜八郎。三島由紀夫。北里柴三郎。宮崎滔天。山本為三郎。細井平洲。井植歳男。開高健。松前重義。芹沢光治良。若山牧水。豊田佐吉。竹久夢二。小池邦夫。横井庄一。横溝正史。荻原守衛。臼井吉見。山田洋次。大平正芳。岡田茂吉。下中弥三郎。重光葵。本多静六。岩田専太郎。黒田官兵衛。山田方谷。大原孫三郎。小栗上野介。犬養木堂。岡崎嘉平太。美空ひばり。円谷幸吉。薄田泣菫。新田次郎。王貞治。法然。北原白秋。宮本武蔵。千住博。大村智。萩原朔太郎。荻野吟子。成瀬仁蔵。菅茶山。中江藤樹。いがらしゆみこ。小畑勇二郎。鳥潟隆三。石橋湛山。藤原啓。勝海舟。やなせたかし。井上靖。西山由之。芦野宏。宮柊二。中山修二。岡田紅陽。昭和天皇。松永安左衛門。
ーーーーーーーーーーーーーー
youtube「遅咲き偉人伝」の録画「グランマ・モーゼス」「森光子」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」6月5日。富本憲吉「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」
富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。
奈良県生まれ。東京美術学校に入学し建築を学ぶ。ウィリアム・モリスの工芸思想に感銘を受け、卒業を担保した上で、在学中にロンドンに私費留学する。ヴィクトリア&アルバート美術館に通い、アート・アンド・クラフツの作品のデッサンの日々を送る。
1910年に帰国。英国から来日中のバーナード・リーチの影響を受け、陶芸に関心が高まる。故郷の奈良に窯をつくり、独学で技術を磨く。白磁の作品作りに成功する。この時代は「大和時代」と呼ばれる。
1926年には東京世田谷に移り窯を築く。この「東京時代」に評判をえる。また民芸運動のリーダーであった柳宗悦と交流する。1944年には東京美術学校教授に就任するが、戦後の1946年に辞任し京都に移る。この「京都時代」に、ほどこした色絵に金と銀を同時に焼き付ける「金銀彩」を完成させた。
1950年、京都市立美術大学教授。1955年には「人間国宝」(「色絵磁器」保持者)に認定される。1961年、文化勲章。不思議なことに、1963年3月に定年退官、5月に学長に就任し、6月に78歳で死去している。
富本憲吉は、建築という分野から、陶芸の道に進み、日本近代陶芸の巨匠となった。美術として陶芸を究めるという姿勢は、柳宗悦らの民芸運動とは距離があった。富本は陶芸を職人仕事ではなく、芸術家として向き合ったのである。
没後に『わが陶芸造り』が刊行された。これを題材とした2020年のシンポジウムの動画をみた。若い時代にモリスから影響を受けた、手仕事の大切さ、人間の労働の貴さと楽しさ、丁寧な仕事ぶりなどが専門家たちから語られている。また赤絵の下地に金銀を施した作品を解説する動画も鑑賞した。
富本には「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」という言葉がある。実際、遺言には「骨は灰にして加茂川に流してしまうべし」とあった。家族はそういうわけにもいかなかっただろう、先祖代々の墓地に石塔をたてている。
「作品だけが墓である」には芸術家の覚悟がみえる。これほどの決意で作品に立ち向かっていたことに感銘を受ける。こういう厳しさは他の分野のトップの人たちにもみえる。」
作家の中野孝次を思いだした。「わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。」(遺書。「ガン日記」より)。また私生活を明らかにしなかった俳優の渥美清なども同じ考だったのだろう。
著作、映像、作品などの違いはあるが、創造者を自認する人たちには墓は必要ない。創造物自身が墓なのである。