「『風の余韻』久恒啓子遺歌集・追悼集」を上梓。一周忌に向けて編んだ母の遺歌集です。

昨年亡くなった母親の遺歌集が完成しました。6月の一周忌に向けて編集したものです。家族、歌の仲間たちの追悼文や短歌も含めて、225ページ。

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はじめに

久恒啓子は、令和3年6月21日に94歳で永眠いたしました。

久恒啓子の遺歌集『風の余韻』の刊行にあたり、その経緯について述べたいと思います。    

亡くなった後に、戒名をつけることになり、宝蔵寺の住職と相談しました。前向きで明るい人柄を「明香」、歌集の『明日香風』も意識しています。50年を費やしたライフワークの短歌から、もちろん「歌」は欠かせません。個人歌集のタイトルは、『風の偶然』から始まってすべて風がついていますので、「風」も欠かせません。

家族にとっては、慈母・滋祖母・滋曾祖母という存在であり、慈愛の「滋」を用いました。  

結果として「明香院啓歌慈風大姉」という戒名となりました。この戒名を身につけて仏門に入り、迷いなく極楽浄土に向かったことでしょう。

生前、母からは、「遺歌集」を出してほしいと言われていました。その前にもう一冊を出そうかということで、準備をすすめていたようです。結果的に遺歌集になるかもしれないという予感もあったかもしれません。歌を整理し、弟子にパソコンで打ってもらった原稿があり、編集にあたり、随分と助かりました。結果として、母自身が人生の締めくくりの遺歌集を自分で編んだことになりましたので、心残りは無かったのではないでしょうか。

人の一生は、公人と私人と個人の三つの側面で成り立っていると思います。調停委員などの公人も終え、子どもたちの独立と夫の看病も終えて私人の役割も十二分に果たし、晩年に残ったのは個人の領域となりました。自らのテーマを追うライフワーカーと、人々との交流に重きをおくネットワーカーの二つが思い浮かびます。この二つの流れが重なってくることがあります。母の場合は、短歌というライフワークを追いかけているうちに、教える立場になって、深く広い交流が生まれ、それが生きがいとなっていました。そして、いつの間にか「先生」と呼ばれるようになりました。

人爵と天爵という言葉あります。公的な仕事の成功でもらうのが人爵、まわりの人たちから自然に与えられるのが天爵です。この「先生」という呼び方には尊敬の念が込められており、まさに天爵でした。晩年にまわりから自然に先生と呼ばれる生涯は、高齢社会のひとつの在り方なのではないでしょうか。

人の偉さは人に与える影響力の大きさで決まります。深く、広く、長く影響を与える人が偉い人でしょう。母の場合は、研究の著作や実作の歌集によって、そして家族へ与えた慈愛の深さによって、永く影響が続くことになるかもしれません。自分の母ながら偉い人だったと思っています。

私はひそかに、母は人生100年時代の女性の生き方のモデルを体現しているのではないかと思っていました。43歳から短歌を始め、還暦の60歳から万葉研究を開始する。古稀喜寿の70代にはいり、歌集や研究書をものし、それは米寿の80代を越えて、卒寿の90代まで続きました。母は晩学の人であり、遅咲きの人でありました。

多くの方々の追悼の言葉を含めた「遺歌集」を、様々の関係者の人たちの親身の協力をえて、一周忌までになんとか刊行できました。皆さまに深く感謝をしています。

本当に長い間、ありがとうございました。

                        久恒啓一(長男)

 

目次

はじめに

一 「社会につながる日常の風」を歌う・・・久恒啓子の歌人

二 久恒啓子遺歌集『風の余韻』

三 歌の教え子、友人たちからの言葉と追悼短歌

四 家族の言葉

五 思い出の写真から

六 久恒啓子の生涯

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遺歌集から。

 志果たしても故郷へ帰らざる子ら思ひゐつ春疾風吹く

 次の世もこの二男一女の母でいたし古きアルバム捲りつつゐて

 訛ことば使わはず七十年を暮らしたるこの地の万葉の歌を究めむ

 今日は歌会明日は万葉と請わるることのあるを喜ぶ老いの暮らしに

 なしたきことすべてせしとの思ひに抱く『万葉歌の世界』の出版を終へて

 思ひをつづりて一首一首を作りゐるわれは辞世の歌のつもりで

 目の前の黒幕がさっと下りるやうに終りたしと思ふひとりの夜を

 夫の骨片沈む博多の海に入らばわれの一世は完結せむ

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午前:立川で体調を整える。終わって、「知研」の福島さんと打ち合わせ。

夜:デメケン、力丸君、深呼吸学部会議。

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「名言との対話」6月6日。トーマス・マン「一日を早めに始めることがいかに大切か」

パウルトーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)は、ドイツ出身の小説家

自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』、市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説。、教養小説の傑作『魔の山などを書き、1929年ノーベル文学賞を受賞した。

1933年ナチスが政権を握ると亡命し、スイスアメリカ合衆国で生活。聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』。ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表した。

先日の古本市で手にした『トーマス・マン日記。 1944-1946』を読んだ。第二次大戦中なので、欧州戦線の記述が多い。特に、祖国ドイツとヒトラーに関する記述が多い。

1945年の日本のポツダム宣言受諾の前から8月15日までの日記に日本の事が記されている。当時の日本がアメリカからはどう見えていたかわかる。以下、マンの記述をピックアップ。

  • 8月7日「新聞は原子爆弾と、多くのユダヤ人学者が登場するその発明の物語の記事を満載している。」
  • 8月8日「原子爆弾による広島市の不気味な破壊について。」
  • 8月9日「二番目の(あるいはいくつかめの)原子爆弾長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲。ロシアと日本戦闘、満州国での展開。」
  • 8月10日「日本の降伏についての不確かないうわさと電話情報(レイデ)。確認されたのは、スウェーデンとスイスを通じて「天皇の命により」降伏の申し出があったことと、唯一の条件が天皇家の存続ということ。この件について連合国で協議。「社会上、宗教上の制度の保護」という決まり文句を使って、実際はすでに約束があった。しかし世論のはげしい反発にあった。上院議員たちは電報攻めにあった。国も人も原子爆弾で破壊せよという希望。」
  • 8月11日「日本に対して、勝者の命令に同意できるためにミカドの存続が許される旨と、民族自身でのちに天皇家の存続を決定していいという条件が示された。十三歳の皇太子が前面に押し出される。」
  • 8月12日「日本の回答が待たれる。どうやら内部に深刻な闘争があるらしい。少なくとも精神的な。天皇の自殺もありうると言われている。」
  • 8月13日「日本はまだ決断しない。」
  • 8月15日「新聞は、諸都市で大衆が激しい喜びをぶちまける様子を伝える記事であふれている。日本、悲劇的にしてグロテスク。陸軍大臣の自殺、支配者に対する奉公に足らざるところがあったためだという。皇居前には、赦しを請い、身をかがめるおおぜいの人々。そこには敗北を一時的なものと考えよ、決して、決して忘れるな、復讐せよ、などといった、いかにも無分別な公然たる脅迫がある。」

『日記』には大作家・マンの日常が記されていて実に興味深い。ゲーテルノワールナチス。「ブデンブローク家の人々」が残る。ゲーテのように人生を発展させてきた。散歩。「タイム」。日本軍。肖像画のモデル。ヘルニアの前兆。「カラマーゾフの兄弟」。手紙。講演の材料集め。入れ歯の不具合。日記を読む。嫌気。原子爆弾。70歳の誕生日。、、、

今回読んだ『ヴェニスに死す』の主人公は初老の作家のグスタアフ・アッシェンバッハだ。作家という人種の心の中が描かれている。読みながら、主人公はトーマス・マン自身であると感じた。「一日を早めに始めることがいかに大切か」と述べているマンの心の中を覗いてみよう。

・朝早く冷水を胸と背に浴びることで、その日課をはじめ真底から良心的な朝の二時間または三時間にわたって、芸術へ 供物 としてささげた。

・かたい意志とねばり強さとで、幾年ものあいだ、全然同一の作品の緊張のもとにこらえとおし、本来の制作に、もっぱらかれの最も強力な、最も尊厳な時をあてた。

・真に 尊崇 すべきものと呼び得るのは、ただ、人間的なもののあらゆる段階で、特徴的な生産をするだけの力を授けられた、芸術家の生活のみだ。

・午前中の、めんどうな危険な、今まさに最大の慎重と周到と、意志の透徹と細密とを要する労作から、離れることができるのは旅行。それは解放と負担脱却と忘失とをねがう。この欲望は、逃避の衝動だ。

トーマス・マンにして、「強靱 で尊大な、いくたびも試錬をへた意志と、このつのってくる倦怠 とのあいだの、精根を枯らすような、日ごとにくりかえされる闘争」の日々であったことがわかる。