「人物記念館の旅」の1000館目は「ドラえもん」の藤子・F・不二雄ミュージアム。

今週訪問した「藤子・F・不二雄ミュージアム」で、2005年から始めた私の「人物記念館の旅」は、ついに1000館に達しました。

1000館目は2112年9月3日が誕生日の「ドラえもん」にしました。今から90年経つとドラえもんが生まれます。21世紀に生まれた子どもたちは、そこまで到達する可能性があります。「未来」を感じるという視点から選びました。

子育て中は、テレビで「ドラえもん」をよく見ましたし、今では孫がファンで漫画本をほとんど読破しているようです。その子はドラえもんが誕生した2112年まで生きる可能性があるのです。


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ドラえもんは、子守り用ネコ型ロボット(友達タイプ)。以下が性能。

電子頭脳:ウルトラスーパーデラックス・コンピュータ(人間と同等の性能で、喜怒哀楽を表現する感情回路つき)。目:赤外線アイ(暗闇でも物が見える)。耳:高感度音波測定イヤー(遠くの音や特殊な音もキャッチする高性能の耳)しかしネズミにかじられたため、普通の人間と同じ聴力しか聞き取れない。鼻:強力ハナ(人間の20倍の能力を持つ)※故障中。口:デカ口 洗面器がそのまますっぽり入る。足:へんぺい足(どんなところでも猫のように静かに歩ける)※故障中。なお、反重力装置により地面から2〜3mm浮いているため、靴をはかなくても足が汚れることはない。ひげ:レーダーひげ(遠くのものを感知する高性能のレーダー)※故障中。鈴:ネコ集め鈴(特殊な音波を発して、ネコを集める)※故障中。

 

以下、「ドラえもん名言集」(藤子・F・不二雄)。ドラえもんは、子どもたちの先生のようだ。ドラえもんは、絵本と同じように、道徳観、倫理観を育むという大きな役割をしていることがわかった。アジアの国々へも日本人の価値観を伝えるというソフトパワーの役割も果たしている。

  • きみがひるねしてる間も、時間は流れつづけてる。一秒もまってはくれない。そして流れさった時間は二度とかえってこないんだ!!
  • 未来なんてちょっとしたはずみでどんどん変わるから。
  • すぎたことばかりくよくよしたって仕方がないだろう。目が前向きについてるおはなぜだと思う? 前へ前へ進むためだ!
  • 昔むかしもいいことばかりじゃなかったんだね。今の時代が気にいらないとこぼしてるだけじゃなんにもならない。
  • あったかいふとんでぐっすりねる! こんな楽しいことがあるか。
  • 悩んでる、、、? いや、悩んでなんかいないね。たんに甘ったれているだけだ。いっぺん本気で悩んでみろ!!じぶんというものをしっかりみつめろ。悩んで悩んで悩んで悩みぬくのだ。そうすれば、、、、そこに新しい道がひらけるだろう。
  • あわてなくていいよ。人生は長いんだ。
  • 障害があったらのりこえればいい! きみたちはかんちがいしてるんだ。道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。
  • 「笑う門には福きたる」ってしってるか。気持ちを明るくもってればなんでもうまくいく。ショボくれてちゃそれこそ不幸をよびよせてるようなもんだ。
  • 今の自分をふりかえってみろ。たいした努力もないである日突然えらう人になれるとお思う> 失敗しては反省し、また失敗して反省し、、、。そのくり返しの毎日さ。
  • しかえししても、またしかえしされるからきりがない。それよりも、、、。いじわるされるたびにしんせつにしてやったらどうだろう。

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「名言との対話」12月08日。諸橋轍次「無理をしない」

諸橋轍次(1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で『大漢和辞典』を完成させた。

新潟県三条市生まれ。諸橋は小学校の代用教員、師範学校を出て、東京高等師範学校の国語漢文科に入学し漢文を学んだ。卒業後、群馬県師範の教諭から高師付属中学で教鞭をとり、27歳から35歳まで教師生活を送る。

37歳、文部省から2年間の中国留学を命ぜられる。経費は岩崎小弥太や渋沢栄一が面倒をみている。帰国後は、岩崎から静嘉堂文庫長を委嘱される。そして東京高師、国学院大学講師になり、5年後には大東文化学院教授となる。1929年、文学 博士 の 学位 をさずけられ、同じ年に創設された東京 文理科大学 の 助教授 になり、翌年には 教授 となった。都留文科大学初代学長。

 1929年、大修館の鈴木一平は「先生、わたくし、大 修 館 の 運命 をかけて、先生のおっしゃるような 漢和辞典を出版することに心をきめました」と語る。この時、諸橋轍次45 歳、鈴木一平は41歳だった。諸橋は杉並 の山林の中に家をかりて事務所をうつした。そこを、『 遠 人 村 舎』とし命名して、大漢和のための仕事場とする。人を遠ざけて仕事に没頭する決意をしめした。
諸橋が 東京文理科大学 および 東京高等師範学校の教授を退官 してたのは 終戦 の1940年秋で、63歳 。それからは心おきなく 大漢和 の仕事に没頭する。

途中様々のことが起こる。火事でそれまでにでてきていた組版、10トンの大型トラック10台分が灰になったり、他の出版社からの刊行の申し出もあったが、2人の結束は変わらなかった。

そして、「大漢和辞典」は1955年第一巻配本、5年後に最終の第13巻総索引が刊行された。開始以来35年の歳月と、のべ25万8千人の労力と、9億円(時価換算)の巨費を投じた大出版であった。また諸橋が遺嘱した補巻刊行の2000年まで75年。まさに近代有数の一大プロジェクトであった。

諸橋は1944年に朝日文化賞、1955年に紫綬褒章、1965年には文化勲章、勲一等瑞宝章。刊行した大修館の鈴木一平は1957年に菊池寛賞、勲四等瑞宝章などを受賞。この大プロジェクトへのきわめて高い評価をうかがうことができる。

三浦しをん舟を編む』という小説を読んだことがあり、映画も観ている。15年の歳月をかけて「大渡海」という辞書が完成したとき、壮大なプロジェクトを一緒に戦った仲間たちは、「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と振り返る。素晴らしい物語だった。辞書の編集という一大事業の苦難と栄光を垣間見ることができた。

さて冒頭の「無理をしない」である。このような事業は無理をしないと完成までにはこぎ着けないのではないかと思うが、さに非ず。辞書の編集という事業は根気と体力を要する仕事であり、諸橋自身も肺炎、肋膜炎、百日咳、白内障、そして失明同然になっていく。そういう健康状態の中で、使命感にかられながらも、無理をしないで長期戦、持久戦でライフワークに挑んだのである。

諸橋の徹次の牛の歩みは、さらに続く。『新漢和辞典』13巻、『新漢和辞典』、『中国古典名言事典』、『広漢和辞典』という仕事を完成させている。文化勲章の栄誉に輝いた『大漢和辞典』がライフワークではなかった。真のライフワークは「辞典」の編纂であったのだ。

「無理をしない」で、為すべき仕事を継続していった。99歳という長寿と、その間になした偉大な業績は、それが正しかったことをうかがわせる。