「中津市立豊田小学校開校150周年記念誌」が届いた。
卒業生代表の一人として文章を頼まれたので、「先生の慧眼」というタイトルで小文を書いた。
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先生の慧眼
久しぶりに、小学校時代の通知表を手に取った。担任の名前とハンコが押してある。1年は高山先生。2年は野村先生。3年は川江先生。4年は菊池先生。5年は池江先生。6年は高茂先生(披露宴で祝辞をいただいた)。1年、2年時は嶋通夫校長となっていた。嶋先生は中津の誇る文化人だったことを後で知った。
1年時の高山先生からの「通信欄」には「無邪気で活発明朗ですが、常にそわそわしているので聞き漏らしが多く、充分な実力の発揮が出来ていない様です。仕事は速いが、少し雑なようですのでお気をつけ下さい」というコメントがあり驚いた。あれから半世紀以上が過ぎた。それなりに勉強し、東京の企業で悪戦苦闘し、そして教育者にもなるなど、自分を磨いてきたつもりだったが、何のことはない。小学1年生の姿は、今の私の姿そのものだったのだ。最近亡くなった母と一緒に苦笑したことを思い出す。慧眼に恐れ入った。やはり先生は偉い!
小学校の先生がもっとも大事だという人は多い。池田勇人首相は「体の中に滲み渡るような教えというものは、小学校教育にあるのではなかろうか」、田中角栄首相も「学校教育で一番大切なのは大学でなく義務教育だよ」と語っている。私も同感する。偉人が出る不思議な町といわれ続ける故郷・中津であること、そして母校の豊田小学校がその中心であることを祈りたい。
創立150年ということは、1872年、明治5年である。太陽暦が採用され、新橋・横浜間に鉄道が走り、学制が発布され、福沢諭吉のまた従弟の増田宋太郎の妻が中津の士族の娘を引き連れて働らかせた富岡製糸場が開いた年だ。それから150年の歳月が流れ、多くの人が学び、世に出た。
今でも目に浮かぶのは校門の右手にあった大きな銀杏の木である。世界最古の現世樹木であり、生命力が強い。花言葉は「長寿」である。銀杏の木の下で遊び、喧嘩をしたことも思い出した。豊田小学校の校門を入ってすぐ右手に大きな銀杏の木があった。帰省するたびに小学校の近くを通ると、目に入る。私の自宅は上宮永4丁目だが、「三丁目の夕日」という戦後の映画をみては、故郷を思い出していた。
中津という町は偉人が多く出る不思議な町である。福沢諭吉ら大学創業者が3人、実業家も中上川彦次郎をはじめ多数、梅津美治郎などの軍人、前野良沢ら蘭学者、、、。校歌は、「仰ぐ自尊の碑は 力の泉湧くところ」とあったことを記憶している。
いつの時代も、国家も地域も盛衰は人による。銀杏の花言葉は「長寿」だ。実がなるにも長い時間がかかる。「100年の計は人を植うるにあり」というが、銀杏は実に1000年の木である。銀杏の木を大切にして欲しいものだ。
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タイトルは「先生の慧眼」に訂正したが、最初に送った「先生の予言」になっていたのは残念。
福沢諭吉。小幡篤次郎。濱野定四郎。中上川彦次郎。小幡英之介。白石照山。増田宋太郎。田代基徳。朝吹英二。和田豊治。奥平昌鹿。奥平昌高。辛島正庵。村上玄水。大江雲澤。前野良澤。村上田長。村上巧兒。磯村豊太郎。田原淳。水島銕也。廣池千九郎。宇都宮仙太郎。渡邊重名。雲華上人。島田虎之助。梅津美治郎。横松宗。
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「名言との対話」8月13日。アルフレッド・ヒッチコック「汽車の時間に間に合うかどうかギリギリの所で駅に駆けつけるのが「サスペンス」。発車間際にその列車のステップにしがみつくのが「スリル」。ようやく座席に落ち着き一息ついたところで、行先が違うことに気づく。これが「ショック」だ」
サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(英: Sir Alfred Joseph Hitchcock, KBE、1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。
ヒッチコック少年は、父の指図による監獄経験と戦争の経験から、恐怖に敏感になった。エンジニアや企業の広告部門を経て、1919年にサイレント映画の字幕デザイナーとなる。1925年に『快楽の園』で監督デビュー。1926年、助監督や記録係で助けてくれたアルマと結婚。二人は生涯を通じて同志の関係だった。1927年にはイギリス映画の最も高給取りの監督となり、創造的な自由を獲得した。1929年からはトーキー映画の時代となり、音の新しい表現の可能性を追求し、熱狂的な支持を受けた。
ヒッチコックは当初は娯楽映画の職人監督という評価に過ぎなかったが、1950年代にようやく評価が高まってくる。その後、低迷の時代を経て1934年には再びナンバーワンになった。
アメリカでの作品のヒットで、次第にアメリカと縁を深くする。1939年から1953年まではアメリカ・ハリウッド時代だ。第2次大戦後には、サスペンスとユーモアの交差したヒッチコック・タッチで、「サスペンス・スリラーの巨匠」として、大きな富と名声を得ている。
1953年から1963年の10年間はピークの時代だ。金髪で上品な容姿のグレース・ケリーをつかった作品でヒットを飛ばした。グレース・ケリーを「雪をかぶった活火山」と表現していた。ヒッチコックは、セックスアピールの強いモンローやブリジッド・バルドーは好みではなかったのだ。
テレビの時代になって、1955年には『ヒッチコック劇場』で自身が解説者として登場している。長く続いたこの番組は日本でも放映されていて、私もよくみていた。肥満体で表情を変えずにポーカーフェースで語る姿はユーモラスでもあった。ある日、鳥が人間を襲うという恐怖におびえる様子を描いた『鳥』などに代表されるヒッチコックの、怖い作品はこの番組でみたことになる。1960年には日本にも訪れている。
1965年から1980年はキャリアに影がさしてくる。失敗作が続くが、『フレンジー』で成功し、「昔の調子を取り戻す」と評価されるなど、浮き沈みの激しい映画監督人生だった。
ヒッチコックは、「史上最も影響力のある映画監督」、「最高の監督」、「偉大な映画監督」などの投票で第1をとっているのだが、アカデミー賞の監督に何回もノミネートされたが、受賞はならなかったのは不思議である。
生涯で53本の長編映画をつくった。イギリス時代は23本、アメリカ時代は30本と半々だった。亡くなる4ヶ月の1980年に大英帝国勲章のナイト・コマンダーの勲位を授与され「サー」の称号をもらう。なぜこんなに時間がかかったのかという問いに、「うっかりみ落とされていたんでしょう」と答えている。遺灰は、故国のイギリスと活躍したアメリカを結ぶ大西洋にまかれた。
津田ゆうじ『ヒッチコックを追いかけて』を手にした。この本では『サイコ』『鳥』『めまい』『北北西に進路をとれ』を推薦している。全部で27のシーンに分けてヒッチコック作品を論じており、最後はヒッチコキアンの大林監督から、「ヒッチコックは「メアリー・ローズ」を撮りたかった。そこにヒッチコックのすべてがある」という謎の言葉をなげかけられている。
ヒッチコックの名言では、「汽車の時間に間に合うかどうかギリギリの所で駅に駆けつけるのが「サスペンス」。発車間際にその列車のステップにしがみつくのが「スリル」。ようやく座席に落ち着き一息ついたところで、行先が違うことに気づく。これが「ショック」だ」を採りたい。「サスペンス・スリラーの巨匠」にふさわしい言葉ではないか。