夜は「HIRAKIKATA」の仲間との3年続いている懇親勉強会。午後は立川で過ごす。

朝:8時から蜃気楼大学の打ち合わせ。

昼:立川

・オステで体を整える。

・福島さんと打ち合わせ

司法書士と手続きの確認

夜:HIRAKIKATAの仲間との勉強会。2ヶ月ぶりの今日はコンサルタントの忠さんの講義。次回の担当は私になったので「川柳会」とする。4月7日。参加者は、奈良、沖縄、関西、長野、東京から。

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「名言との対話」2月3日。福沢諭吉「今日も生涯の一日なり」

福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体福󠄁澤 諭󠄀吉天保5年12月12日1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日)は、幕末から明治期の日本啓蒙思想家教育家

郷里中津の偉人・福沢諭吉先生の旧居には、子供の頃から何回訪ねているだろう。豊前中津藩の下級武士の実家の土蔵の2階にある勉強部屋の5畳の部屋に木の書見台が置いてある。若き福沢はここで勉強したのだといつみても感銘を受ける。2月3日は福沢が賑やかな一生を閉じた日。戒名は大観院独立自尊居士。

代表作の一つ「学問のすすめ」は初版20万部、偽版22万部として、当時の日本の人口3500万人の160人に一人が読んだという空前のベストセラーであった。この出版業の隆盛が慶應義塾の原資になった。

当時「文部省は竹橋にあり 文部卿は三田にあり」と言われたという。慶應義塾の「義塾」は、公衆のための義捐の金をもって建学する学塾で学費を収めないものという意味だそうだ。福沢がつくった中津市学校(1871−1881年)は当時、西日本第一の英学校といわれたが、慶應の教授たちが教えていた。

福翁自伝」の末尾には「回顧すれば六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」とある。

私の母校・中津北高校の校歌の3番は「世界の空に輝かむ 新たに興る日本の 若き花こそわれらなれ 福沢精神受け継ぎて ああ独立自尊の 中津北高校!」だ。また曾孫の美和は昭和2年生まれで私の母と同年だったから、福沢諭吉は母のひいおじいさんという時代感覚だ。

記念館の隣の諭吉茶屋で「独立自尊」「天は人の上に、、、」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」が気に入って買った。一日一日を大切にして「賑やかな」生涯を送った福沢らしいいい言葉だと感銘を受けた。

4時半起床(冬は5時半)で10時には寝る福沢が散歩党を起こすための銅鑼と打木が残っている。毎日広尾、目黒、渋谷と6キロを歩いた。福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つあった。「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である。後は、「まずじゅうしんをなしてのちじんしんをやしなう」と読む。

福沢旧居には何度も訪れているが、そのときの心境や問題意識で見えるものが違う。自分と同じ年齢のときに何をしていたか、どのような心境だったか、、、、。訪れるたびに郷里の偉人を鏡として、自分の変化も意識する。2005年の正月の福沢記念館から始まった私の人物記念館の旅にはそういう楽しみ方もある。

生涯という長く、しかし短い年月の限られた時間を意識しながら、一日一日、その日その日を大切に生きていきたい。

 

以上を2016年に書いた。だがこの福諭吉という大人物には折に触れてこのブログで記しているので、その内容を並べてみたい。

以下は2005年1月3日の記録である。私の「人物記念館の旅」はこの日から始まったのだ。

郷里の偉人・福沢諭吉先生の旧居には、子供の頃から何回訪ねているだろう。豊前中津藩の下級武士の実家の土蔵の2階にある勉強部屋を覗く。5畳の部屋に木の書見台が置いてある。

記念館ではまず、ビデオを見る。中津人への呼びかけである「中津留別の書」の中にある有名な言葉「天は人に上に人を造らず 人の下に人を造らず と言えり」は、39歳のときに出た「学問のすすめ」に収録されて人口に膾炙したこと。初版20万部、偽版22万部として、当時の日本の人口3500万人の160人に一人が読んだという空前のベストセラーであったこと。この出版業の隆盛が慶應義塾の原資になったこと。貧富の違いなどは、学ぶものと学ばざるものとの違いにあり、日常生活に役に立つ学問が大切であること。個人が独立し、家が栄え、天下国家が栄えることなどが説明されている。

当時「文部省は竹橋にあり 文部卿は三田にあり」と言われたという。成田市長沼に力を貸した逸話も初めて聞いた。小川武兵との交流、御礼に味噌漬けを100年以上送り続けているという話も曾孫が語っていた。

1900年には、世紀送別会で「独立自尊迎新世紀」を演説した。

慶應義塾の「義塾」は、公衆のための義捐の金をもって建学する学塾で学費を収めないものという意味だそうだ。福沢がつくった中津市学校(1871−1881年)は当時、西日本第一の英学校といわれ、慶應の教授たちが教えた。

福沢諭吉には9人の子供があった。男4人、女5人で、長男一太郎慶應義塾社社頭・塾長、次男捨次郎は時事新報社社長。

福翁自伝」の末尾には「回顧すれば六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」とあった。

系図を見ていると、曾孫の美和は昭和2年生まれだった。私の母と同年だったから、福沢諭吉は母のひいおじいさんという感覚になる。

民間に独立して思うところを主張すべきと論じた「学者安心論」、政権は中央政府・治権は地方にと論じた「分権論」、小吏になることを否定し官途以外に無限の広い世界があると論じた「士人処世論」などの本があった。いずれきちんと読んでみたい。

隣の諭吉茶屋で「独立自尊」「天は人の上に、、、」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」があり、気に入って買った。

福沢旧居には何度も訪れているが、そのときの心境や問題意識で見えるものが違う。自分と同じ年齢のときに何をしていたか、どのような心境だったか、、、、。訪れるたびに郷里の偉人を鏡として、自分の変化も意識する。人物記念館の旅にはそういう楽しみ方もある。

隣の敷地に増田宗太郎の記念碑があった。中津在住の作家・松下竜一の「疾風の人」に詳しいが、福沢のまたいとこであるこの宗太郎も相当の人物だったようだ。今は増田宗太郎は誰も振り返らないそうだが、軍国主義時代には中津では福沢の評判は地に落ち、西南の役で中津隊の隊長として西郷隆盛とともに没した増田宗太郎を評価する人が多かったそうだ。時代の空気の変化の中で、福沢ほどの人物も評価の乱高下があったというから驚く。 

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福沢は「健康オタク」であった。今日はそのエピソードを紹介する。

  • 身長は173センチで体重は67.5キロ。48歳の時に生命保険に申し込む時の計測では173.5センチ・70.2キロとあるから、中年になって少しふとったのだろうか。当時の平均身長は158.7センチだったから平均より15センチも高い。堂々たる体躯である。肺活量は5159立方センチ。
  • 起床は午前4時、就寝は午後10時。(見習いたい点である)
  • 運動は米つきと食後の居合い(居合いは一日2000本程度というから凄い運動量)
  • 乗馬を好み、馬に乗って時事新報社に出社(どういう姿だったのか見たい感じもする)
  • 毎朝、慶應の学生たちと一緒に6キロ歩き「散歩党」と称した。(万歩運動の創始者?)
  • 朝10時、娘3人を連れて歩いて東京を出発し、大森、川崎を経て午後5時半に神奈川に到着。歩くことは一家団欒にもっともよい方法と称していた。(私も夫婦で散歩をしているからよくわかる)
  • 元来、大食漢かつ大酒飲みだったが、中年からは節酒・節食。(牛飲馬食の胃)
  • 晩年は魚肉は一切やめ、粥に野菜、牛乳二合。(間食はしない主義)

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福沢の言葉。

  • 「徳教は目より入りて耳より入らず」
  • 「人は老しても無病なる限りはただ安閑としてはいられず、私も今の通りに健全なる間は身にかなうだけの力を尽くすつもりです」(『福翁自伝』の「老余の半生」の最後)
  • 「若い人は年配者と付き合え。年配者は若い人と付き合え」
  • 「一身にして二生を経る」
  • 智恵とは叡智(庶民の智恵、生活の智恵)と知性(理性的な知の働き)を含んでいる。智恵とは物事どうしの関係を判断したり、大小軽重を弁別したりする総合的な能力である(福沢諭吉「文明論の概略」)。
  • 「ただ旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず」
  • 「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐る者は、必ず人に諂ふものなり」
  • 自分でつけた戒名は「大観院独立自尊居士」。
  •  福沢諭吉は維新後に中津藩から問われて、「琉球のようになるのがよい。学校をこしらえて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせる方針をとるべき」と説いた。「弱藩罪なし武器災いをなす」だ。(平和国家、科学技術立国のすすめである。 世界の軍事費の10%を削って農業開発に回すと、途上国の灌漑背水計画の2年分をまかなうことができる。軍事費を減らし、国内生産をあげよ。これが吉田武彦の1982年時の提言である)

 

福沢について人々が語っている。

  • 徳富蘇峰「時として一個の福沢諭吉帝国議会よりも大いなる勢力を有した」
  • 明治新政府では、勝は外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉(1835年生)から「瘠我慢の説」で非難された勝は、1892年に返答を送る。「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。また福沢は勝は「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば、一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。江藤淳は「福沢諭吉の文体」に着目している。「特徴は著者の肉声が聞こえる文体にある」。福沢諭吉「学問のススメ」が座右の書であり、「心身を労して私立の生計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり」に共鳴し、たびたび引用した。
  • 「学者は国の奴雁なり」としたといわれる福沢諭吉の言を前川春雄日本銀行総裁)は参考にしていた。リスクに絶えず注意を怠らない心配性であるべき組織が日銀のあり方なのだと、日銀の内部に向かって常に語っていたのである。前川春雄の伝記に『『前川春雄「奴雁」の哲学』』(浪川攻)がある。全員が一つの方向を向いているとき、集団に危機が襲う。まったく違う方向に目を向けている人がいる集団は、全方位を睨んでいるから、しぶとく生き残る可能性が多くなる。その奴雁の人は、風向きが変わると、リーダーになる場合もでてくる。「奴雁」になろうとする精神を忘れてはならない。
  • 大分県平松守彦知事は、福沢諭吉の『分権論』を取り上げ「政権と治権」を論じている。地方行政の担当すべき治権とは、人民の生活に密着したものであり、警察、道路・橋梁・堤防の営繕、学校・社寺・遊園地の造成、衛生の向上、、、などであり、福沢の考えに沿って地方自治の本義に向かってのライフワークである地方行政の仕事に邁進している。
  • 福沢諭吉は常に失敗したことしか語らなかった、偉い人だと感心したと後に山本権兵衛が言っていたエピソードがある。

 

福沢諭吉の代表作「文明論の概略」の現代語訳(斎藤孝訳)を読了。こなれた現代語訳なので、福沢の言わんとすることをよく理解できた。

福沢は封建時代の江戸時代と文明開化の明治時代の両方を身を持って知っているという得難い経験をしているので、人間精神の発達について述べるにのにふさわしいとして本書を書いた。
そしていずれ後世の学者が本当の「大文明論」を書いて欲しいと希望している。梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」などはそれに対する答えの一つという意識で書かれたものだろうか。
高い見地から過去の歴史を見て、生きた目をもって未来を見通すことが必要だと言う通り、極めて示唆に富む名著である。以下、まとめ。

物事は枝葉末節から離れて、大本にさかのぼって「議論の本位」を定めるべきだ。議論がかみ合わないのは、互いに極端を言うからだ。それではおさまりがつかなくなる。物事には長所と短所があり、両目で見なければならない。そうしたことを克服するために必要な有力な手段は人と人との交際である。利害得失を論じるには簡単だが、難しくまた大事なのは物事の軽重と是非を明らかにすることである。

西洋文明の事物については作ることも金で買うこともできるが、「文明の精神」はそうはいかない。文明の精神とは、人民の「気風」のことだ。一国の気風とは時勢と人心である。アジアとヨーロッパの違いの大きさは、この文明の精神によっている。

自由の気風は、「多事争論」の間にある。中国は独裁君主を仰いできたから思想が乏しくなった。日本は最高の地位の天皇と、最強の将軍がバランスをとっていたために、わずかながら思想が運動することができたのは幸運だった。
日本は国の始めから国体が変わったことはない。それは外国人に政権を奪われたことがないという一点が見事なことなのだ。したがって日本人の義務とはただこの国体を保つことにある。

文明は一大劇場のようなものであり、海のようなものである。文明とは人の身を安楽にして心を高尚にすることをいう。衣食を豊かにして人格を高めることをいう。

文明国になれるかなれないかは国全体に行きわたっている気風による。その気風は智徳のあらわれであり、それには時勢を考えることが必要だ。
孔子は時勢をしらなかった。楠木正成足利尊氏という時勢に敗れた。

智徳の徳とはモラル(恥じることがない)であり、智とはインテレクト(考えること)である。この二つを兼ね備えていなければ十全な人間とはいえない。
徳には、私徳(謙遜・律儀、、)と公徳(公正・公平、、)がある。
智には、私智(物事の理を定めてこれにしたがう)と公智(軽重大小を区別し、優先順位をつける働き)がある。
わが国で「徳」と言っているのは個人的な私智であり、受け身の徳であり、卑屈な我慢を勧めるものだ。
徳は内にあり、智は外にある。私徳の効能は狭く、智恵の働きは広い。徳については後世に進歩はないし、試験もできない。一方、人間の智恵は教育によって生じるもので無限に進歩する。

一向宗の信者は他力を求め何もしない。儒者は孔孟の書を読むだけ。和学者は古書を詮索しているだけ。洋学者はただ聖書を読んでいるだけだ。
宗教とともに、学問と技術を学ぶことで、わが国の文明の水準を高めることが重要だ。
日本には神道儒教仏教があり、徳は不足していない。智恵の獲得が優先すべきことだ。

時代と場所に応じて進歩することが大切だ。失敗はこの二つを間違ったものであり、成功はよく合ったものである。この二つを判断するのは難しいことである。

文明が発達し、智力が進んで「疑い」の精神が生じた。利を取り害を避ける工夫をするようになった。自力で解決できることが明らかになり、勇気が生じてくる。人民ンの智恵が増加すると君主の仁徳を輝かす余地がなくなった。
規則が増えていくのはやむを得ない。規則によって善人を保護するのだ。

文明における自由とは、他者の自由を犠牲にして実現すべきものではない。
権力は必ず堕落するし、権力の偏重はあまねくいきわたっている。日本の歴史は、日本政府の歴史があるだけだ。宗教や学問も独立してはいない。
儒教仏教も古を理想化した弊害を持っている。両者とも半ば政治に関する学問だった。要するに「気概」が不足しているのだ。その結果、物事を「やってみる」精神を失ってしまった。貧富や強弱は、人智によって左右できるのだ。

経済の第一原則は、財を蓄えるこお、そしてそれを消費することだ。蓄積と消費を盛大に行う国を「富国」という。第二の原則はその財にふさわしい経済的な智力と習慣が必要ということだ。財が乏しいのではなく、その財を運営する智力が乏しいのだ。いや、智力が上下に分断されているのが問題なのだ。

外国交際を盛んにすべきだ。これはわが国の一大難病だ。これを治療するのに頼みになるには自国の人民をおいてない。

国の独立を保つには、目的を定めて文明に進むしかない。独立とは偶然に独立している状態ではなく、独立すべき力があることを指す。
自国独立を掲げて内外の別を明らかにして民衆の進むべき道を示せば、それを基準として物事の軽重が決まってくる。

 

雪池忌(福沢諭吉の忌日。墓のある港区元麻布の善福寺で慶応義塾の関係者による法要)。郷里・中津の生んだ偉人。福沢がつくたっと言われている心訓(実際は違うらしい)はいい。

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

 

「福翁事伝 よもやま話 素顔を諭吉」(福田一直)を読みながら中津から東京へ。
中津に住む元朝日新聞記者の著書だ。

中津の偉人・福沢諭吉の人間に溢れるエピソード集。
「出生」「体力」「逝去」「風采」「素行」「雑事」「性格」一族」「好物」「趣味」「洋行」「舶来」「透視」「独立」「反骨」「辛口」「慈愛」「望郷」「交際」「暗殺」「世評」「財産」「女気」「文芸」と目次が並んでいる。

「性格」の項では、以下のように記されている。人物が目に見えるようだ。
「頭の回転が速い、努力家、ユーモアがある、機知に富む、皮肉を言う、風変わり、俗っぽさを好む、独立心が強い、財力を信じる、倹約家、打算的、癇癪持ち、正義感がある、二枚腰、権威を恐れず、腕力を嫌う、方便を使う、無遠慮な点あり、血を恐れる、涙もろい、議論好き、座談に長じる、目先が利く、合理的で進歩的、宗教に淡白、筆まめ、文章と演説がうまい、骨董や茶の湯を敬遠、消閑文を好まず、女性解放の先覚者、こよなく日本と日本人を愛す、、、。

「世間の老人連中は長生きのことばかり気にするが、寿命というものは歳月の長短ではなく、人生に厚みや幅があって、苦楽が多く思索を続ける人が真の長寿者だ」

「留学する者に、アメリカ人は秘密の場所に案内したり、技芸を縦覧させたりはしない」

「世評」の項が面白い。同時代の著名人の評価。

著書は34年間で749万部を発行。授業料をとることを発明。福沢屋諭吉と称する出版元をつくった。晩餐会、園遊会、歌留多会、茶話会をよくした。堅物。フェミニスト
耳学問に長けていた。縁者:福沢幸雄(レーサー)。藤原あき。関係者:手塚治虫(緒方塾の手塚良仙)。岡田嘉子(福沢塾の岡田摂蔵の孫)。湯川秀樹(福沢塾の小川駒橘の孫)。原田直次郎(英学を学ぶ同士・原田一道の次男)。

「人生にはライフワークと言うものがある。これがあるかないかで一生の勢いが違う」という1925年生まれの福田一直さんには、同郷中津の先覚者福沢諭吉研究があった。「文豪福沢諭吉」。「福沢先生教訓集」。第三作が「よもやま話 素顔を諭吉」である。

 

2005年。90歳を過ぎても健筆を振るう中国文学の横松宗先生ご夫妻を訪問。福沢諭吉研究でも、「横松宗、北岡伸一丸山真男の著作を読めば足りる」と言われているそうだ。先生は少し体調が悪いらしいが、3時間ほど楽しく 談笑できた。 

 

2009年。慶應義塾創立150周年「福沢諭吉展」(国立博物館)を訪問。上野の国立博物館表慶館で開催されている慶応義塾創立150周年を記念した福沢諭吉展を見てきた。思えば、2005年の正月から意識して始めた私の「人物記念館の旅」は、この中津の福沢記念館から始まったから、再開にふさわしいかもしれない。

表慶館は、大正天皇(1879−1926)の御成婚を記念して建てられた、明治末期の洋風建築を代表する建物である。石と煉瓦造りの2階建てで、屋根は緑色の銅板で葺いた雰囲気のいい建物だ。慶びを表すという意味で表慶館と名付けられた。福沢諭吉展を開催するにふさわしい壮麗な建築だ。

さて、現在の慶応の安西塾長のあいさつでは、「試みに見よ、古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起らざるものなし」という福沢の言葉から始まっている。1858年に23歳だった福沢は慶応義塾を創立し、1901年に68歳で亡くなくなるまで、獅子奮迅の活躍をする。今回の展覧会のキーワードは「異端」と「先導」である。安西塾長は福沢を知・情・意の総合力に優れた偉大な常識家として福沢を見ている。

この展覧は、第一部「あゆみだす身体」、第二部「かたりあう人間(じんかん)」、第三部「ふかめゆく智徳」、第四部「きりひらく実業」、第五部「わかちあう公」、第六部「ひろげゆく世界」、第七部「たしかめる共感」という七部構成になっている。福沢のもっとも身近な自身の身体、家族から始まって、男女、同志、慶応義塾、経済、政府、演説、時事新報、世界とアジア、そして福沢山脈を形成した門下生の美術コレクションというように、影響が地理的拡大に及ぶ様と後世という時間軸で影響が及んでいく様を描いている。影響が広く、長く、水面の波紋のように広がっていくというコンセプトだろう。

「あゆみだす身体」。4時半起床(冬は5時半)で10時には寝る福沢が散歩党を起こすための銅鑼と打木が展示されている。毎日広尾、目黒、渋谷と6キロを歩いた。また、肖像画が30種類以上残っているように、福沢は無類の写真好きだった。
福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つあった。
「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である。後は、「まずじゅうしんをなしてのちじんしんをやしなう」と読む。

「かたりあう人間(じんかん)」。銀座に交詢社をつくり人間交際(society)を推進したが、交詢社とは「知識を交換し、世務を諮詢する」社会教育の場という意味だということがわかった。

「ふかめゆく知徳」。徳とは「勉強によって智を獲得するかたわら、知らず知らずのうちに備えていく気品」だそうだ。慶応の25年史には、「西洋の実学」という言葉があり、実学に「サイヤンス」というルビをふっている。科学を実践的学問、すなわち実学と訳しているのは興味深い。慶応義塾では、先生と弟子ではなく社会開拓する志の実現のため協同して支え合う仲間(社中)であり、上下関係はないといことになる。福沢だけが先生と呼ばれ、あとは全員が君づけなのはこういった考えにもとづいている。亡くなる年の元旦にに書いた「独立自尊迎新世紀」は雄渾な書である。福沢の葬儀は1万5千人が弔ったが、女性を尊重する論陣を張ったためか女性が多かったとのことだ。

「きりひらく実業」。中央における経済界の福沢山脈(荘田平五郎・朝吹英二・中上川彦次郎・池田成彬・福沢桃介・藤原銀次郎小林一三・松永安佐エ門ら)と並んで「もう一つの福沢山脈」として地方で活躍した慶応義塾出身者の活躍を展示しているのは、いい企画だった。福沢の影響力は地方の産業にも深く及んでいたということがわかる。

「わかちあう公」。「言海」が完成した祝宴の招待状に、招待員総代として「伊藤伯」「福沢先生」とあったのを自ら福沢先生の文字を抹消して送り返したという逸話の本物があった。また、「瘦せ我慢の説」で幕臣でありながら新政府から爵位をもらった勝海舟を非難した書簡に対して、勝の返事もある。「行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張 我に与からず 我に関せずと存候」というよく知られた言葉があった。第一回帝国議会の想像図があり、定員300のうち、慶応義塾出身者は25名だったそうだ。今はどうだろう、もっと多いかも知れない。

「ひらけゆく世界」。展示されていた「西航手帳」は、帰国後の多くの著作のもととなった手帳。「中津留別の書」(1870年)は、福沢のメッセージのエッセンスが詰まっているとのことなので読まねばならない。「福翁自伝」の最後に、これからやってみたいこととして、「気品」「宗教」「学問」を挙げているのも興味深い。

「たしかめる共感」。門下生による美術コレクションだが、「国の光は美術に発す」という福沢の言葉もあった。絵画や焼き物など多くの美術品が展示されていたが、門下の実業人たちは福沢のこの言葉を聞いていてこれらの美術品を蒐集したのだろう。

福沢記念館は何度も訪れているし、本も読んでいるので、今回はまだ知らなかった逸話などを中心に見て回った。

福沢諭吉の本は折に触れて読み継いでいかなければならないと改めて感じた。この企画展の冊子と「福沢諭吉が生きていたらーー」(諭吉インサイドプロジェクト出版委員会編)などを購入。

 

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