豪雨の中、真鶴町立・中川一政真鶴美術館と真鶴町立・遠藤貝類博物館を訪問。「独学の画家」中川一政と「貝類コレクター」遠藤春雄に感銘を受ける。

あいにく大雨の中の旅となった。

 

真鶴町立・中川一政美術館を訪問。


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中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年明治26年)2月14日 - 1991年平成3年)2月5日)は、日本洋画家美術家歌人随筆家。82歳文化勲章

中川一政は、画と書で有名である。驚いたのは、どちらも「独学」だったことだ。美術学校は出ていない。97歳で亡くなるまで、自分流で画を描き続けた。独学の人には誰もまねの出来ない独特の作品ができる。

中川一政真鶴美術館』(1989年)という図録を買った。エッセイを読んだ。

1946年、真鶴の大河内子爵の別荘を買った。半島の突端の真鶴の自宅から下に降りていくと、福浦という港がある。ここに赤い灯台があり、その長い堤防が青空天上の世界一広い画室になった。そこで20年間、毎日のように画をかいた。

20年の間に福浦も俗化したので、1967年に箱根の芦野の湖の山伏峠の下、990mのところに、第二の世界一のアトリエを見つけた。三国峠の山頂からは空一面に秀麗な駿河の富士が見え、反対側には、駿河の海がみえる。天上天下、唯一人のアトリエである。ここでは主に駒ヶ岳を描き続けた。

海のアトリエ、山のアトリエともに、天気に左右される。血気をおさえ、時間の浪費を覚悟して画業に励んだ日々。

「自分にどれだけ力があるかためしたい。力というものは出してみないとわからない」

「それを(一所懸命になれる仕事をした)していることが安心立命で。そこで死んでも本望であるという生活である」

やっていた企画展は「額も画である!」だった。中川は自分で額をつくった。そして額にも模様を描いていた。たしかに画とそれを囲む額も含めて作品なのだ。独学の成果ともいえるだろう。

若い時代に8歳年上の武者小路実篤らとも運命の出会いがあった。そして中川の交友は多彩である。美術館には交友のあった人のリストを掲げてあったが、中川が一番若かった。木村荘八岸田劉生梅原龍三郎ら先達たちから栄養をもらって大きくなったのだろう。

1989年、96歳のときに開館したこの美術館は2回目の訪問だが、1回目の時期は不明。2009年には白山市中川一政記念美術館を訪問している。そこで「中川一政 いのち弾ける!」という本を入手している。いい言葉が多い。

  • 「門の中にはいっているのが専門家」「はいって出られないのが専門家」
  • 「若い時の勉強は、何でもとりいれ貯めることである。老年の仕事は、いらないものを捨ててゆくことである。すて去りすて去りして、純粋になってゆくことである」。
  • 「画の勝負は美しいとか醜いというかいうものではない。生きているか、死んでいるかが問題だ。美しいようにみえて、死んでいるのがある。みにくいように見えて、生きているのがある」
  • 「私はよく生きた者がよく死ぬことができるのだと思っている。それはよく働くものがよく眠るのと同じことで、そこに何の理くつもない」。

体と頭を使っていい仕事をした日は、ぐっすり眠れる。その繰り返しがよく生きたことになる。その先によい死が待っている。それを信じていこう

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真鶴町立・遠藤貝類博物館。

遠藤晴雄。1915年(大正元年)生まれ。2006年永眠。91歳。

中学1年生のときに、貝の研究家・細谷角次郎に出会い、相模の貝、日本の貝、世界の貝を見せてもらう。それ以来、貝のとりこになる。

戦時中は小中学校の理科の教師になり、11年過ごす。合併した真鶴町初代教育長を16年。定年後、貝類の収集は本格的になった。

貝類の個人コレクションを充実させ、悲願の私設貝類博物館を完成させる。4500種、50000点以上の貝類をもとに、死後の2010年、町立遠藤貝類博物館が開館する。

「貝と私の人生」という遠藤春雄の文章をみた。最後に「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歌の氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ、希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にして已む」(サミュエル・ウルマン「青春の詩」より)が記してあった。

貝類博物館に並ぶ膨大な貝類コレクションは圧巻だった。それぞれの模様も美しく、遠藤がその美しさに感動したことが想像できた。中でも「生きている化石」といわれる「オキナエビスガイ」のコレクションは貴重だ。遠藤コレクションはついに町を動かし、博物館になった。コレクションに生涯をかける「コレクターという人生」も素晴らしい。

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中川一政、遠藤春雄、そして昨日の平松礼二。いずれもサミュエル・ウルマンの「青春の詩」(作山宗久 訳)のような人たち
  
  青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
  薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
  たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
  年を重ねただけで人は老いない理想を失うとき初めて老いる。
  歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
  苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

  60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、
  おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
  君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
  人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。

  霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ悲嘆の氷に閉ざされるとき、
  20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
  80歳であろうと人は青春にして已む。    
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「名言との対話」10月7日。村野四郎「文学、、は実業による経済的な防波堤の内側でなすべきもの」

村野 四郎 (むらの しろう、 1901年 (明治34年) 10月7日 - 1975年 (昭和50年) 3月2日 )は、 日本 の 詩人 。 

府中市郷土の森という広大 な市民の 憩いの場がある。博物館本館、たくさんの由 緒ある古い民家群、旧府中町役場庁舎、旧府中郵便取 扱所、そして桜の木、季節ごとの花々な ど、四 季の移ろいと歴史に触れることができる大きな空間で ある。

この一角に旧府中尋常小学 校の校舎が復元されている。教室には昔使われていた教科書などが展示されてい る、懐かしさを感じる空間である。この一階に詩人・村野四郎(1901−1975年)の記念館がある。この名前にはあまり親しみはないが、「ブンブンブン  ハチがとぶ おいけのまわりに のばらがさいたよ ぶんぶんぶん  はちがとぶ」という童謡や、卒業式でよく歌われる「巣 立ちの歌」などの作詞者といえば少しイメージがわいてくるだろうか。府中出身の村野は市内の小学校、中学校の校歌を6点作詞し ている。

武蔵野の土地に根ざす裕福 な商家で、 父の代には酒、食品、建築資 材、舶来のス タンダード石油の特約店にもなっている。村野家に兄弟は12人おり、7人の男 子がおり、四郎はその名の通り4男である。府立二中では、鉄棒と柔道が得意。卒業時は柔道部主将。運動に関する関心と経験が後に詩集「体操詩集」を書かせた。

次郎は北原白秋門下 の歌人(後 に「香蘭」を主宰し生涯歌作を続けた)、三郎は西条八十門下 の詩人(独 立後、商売の傍ら詩集を出す)、そして四郎は詩に関心が あったのだが三郎のつくる詩に圧倒されて、仕方なしに俳句をやった。少年四郎は、文学の道には進もうとはしなかった。一年目の受験は東京商 科大学を 失敗し、2年目は慶応義塾の経済学部に合格する。文学は好きではあったが「文学で飯を食おうなどとは思ってもいな かった」と述懐している。大学では俳句の世界で頭角を現した。

卒業の前年の25才のときに処女歌集「罠」を自費出版して いる。しかし部数は300部だったが、一冊も売れなかった。長男の村野晃一は「生涯、詩は趣味と位置づけ、職業とは考えないというのは、学部を選ぶときに決めていたとはいうものの、この事件がタダメ押しになったのではないかと思います。」と後に書いている。

大学時代を通 じ、詩の病はますますこうじたのだが、一方で自分の詩を護るためには確固とした防波堤が要るという確信を持った。仕事をもって、その上で誰からも邪魔されずに詩作を極めていこうという姿勢だった。その考え方が後の詩壇の先導者をつくった。

1927年に慶応を卒業。秋に近衛歩兵第一連隊に入隊。結構、要領よく義務を果たしてきたようだ。実際の戦時中の身の処し方に通じる。その軍隊で、坂倉準三に出逢う。坂倉は同年生まれの東大文学部美術史学科卒。渡仏し、ル・コルビジェの門に入り、37年のパリ万博日本間の設計を行った人だ。これ以後、自分の胸の内に描きだす詩的美空間をより意図的に組み立てるよういなる。視覚的、構成的になる。

1929年の春、大阪の尼崎汽船に就職するが、大阪弁になじめず寂しくて東京に逃げ帰り、理研コンツェルンの本社である理化学興業株式会社に入社する。ここから「精神のために詩を、肉体のために実業を」という考え方にもとづく長い二 足のわらじの人生が始まる。このあたりの見通しと覚 悟には感心させられる。
文学者は文学にのめり込んで、生活破たん者が多いのだが、長期的に戦略的に生活と詩作を 両立させる姿には感銘を覚える。理研は、高峰譲吉の国民科学研 究所構想を、渋沢栄一らの努力で 成立した研究所で、三代目の大 河内正敏のときに大きく飛躍を果たした。村野は理研では、従業員300人規模の理研電 具の社 長にまでなるなど、実業にも注力している。そしてその生活 基盤の上で詩作に励み、「現代詩の一頂点」(室生犀星)を 極めていく。

村野四郎の実業人人生を年表風にたどってみる。
1937年。長男誕生、35才。会計課長。1940年。理研電具株式会社へ転出し、常務取締役。会社は終戦と同時に活動を停止。ストライキが起こり、会社に軟禁される。そういう状況でも詩の活動は休まない。1946年には戦後我が国初の詩集「天の繭」を共著で刊行。1950年。友人と共同で、三鷹市理研電解工業株式会社を設立し、専務取締役。48才。このあたりから、詩の分野で売れっ子になっていく。詩の選、詩論、俳句の鑑賞など活動の幅がひろがっていく。1964年、長女のところで初孫。1966年三男が大学を卒業。家族に対する経済的防波堤は要らないということで、理研電解工業会長を辞任する。

北原白秋と会い惹きつけられる。そして白秋を卒業する。「もっと現実的な現実の中に生きて苦悩する人間の姿はどこにも描かれていない。そしてその感情は全く人間的連帯感に触れているところがない。」「白秋は、たしかに近代詩の偉大な完成者ではあったが、彼は決して現代詩の真の先駆者ではなかった」

四郎に圧倒的な影響を与えたのはリルケである。それはハイカラ趣味の源泉でもあった。「リルケの詩はその都度、いつも私が辿ってきた各段階にふさわしい新鮮な示唆を与えてくれた」四郎の語彙は、日本語のみならず、英語、ドイツ語も実に豊富だった。

四郎はスポーツ好きだった。鉄棒、柔道、水泳、スキー、登山、ボート、社交ダンス、とあらゆるものをこなした。そのスポーツ好きが「体操詩集」という詩集を生んだ。その一つをあげる。
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鉄棒

僕は地平線に飛びつく
僅に指さきが引っかかった
僕は世界にぶら下がった
筋肉だけが僕の頼みだ
僕は赤くなる 僕は収縮する
足が上がってゆく
おお 僕は何処へ行く
大きく世界が一回転して
僕が上になる
高くからの俯瞰
ああ 両肩に柔軟な雲
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戦時色が強くなる中、四郎は、意識高揚のための愛国詩も書いている。「今日においては、詩人は沈黙するか、然らずんば○○手となるべきである」という人がいるが、もはや、そうした選択はない。みんな○○手になる他はないのだ」といい、日本文学報国会詩部会常任幹事(部会長は高村光太郎。常任幹事三好達治ら)、日本詩曲協盟幹事、日本少国民文化協会員などの職をこなしている。

50代後半の1959年に刊行された村野四郎の「亡羊記」は、読売文学 賞を受賞する。「亡羊記」の詩をひとつあげてみる。
−−−
鹿

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
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この詩に対して伊藤信吉は「いま生と死が入れかわろうとする一瞬のあわいに、眼前の死の谷へ射ちおとされようとする瞬間に、夕陽をうけてきらめくあざやかな瞬間!」という解説を書いている。

ところで、詩人の登 竜門としてH氏賞という賞がある。旧 知の平沢貞次郎と1950年に会ったとき、平沢は「青春時代を充 実させてもらった感謝に資金を提供したい。ただし名前は 伏せてほしい」という申し入れを受ける。平沢は戦前はプ ロレタリア詩人会を結成する詩人だっ たが、弾圧を受け、実業に専念し余裕があった。現代詩人会 の責任者だった村野は、H 氏賞を創設し、そうそうたる詩人を世に送り出して、今では詩壇の芥 川賞と言われている。

村野は、7つ年上の西脇順三 郎や、草野心平らと 交遊を重ねている。60代半ばで、ようやく実業界から引退するが、そ の前あたりから村野は、芭蕉の存在に 惹かれてゆく。それまで新即物主 義や実存主義と いった西 欧の存在論を根拠に詩を追及してきたが、 17世紀の後半の日本に芭蕉が いたことい大きなショックを受ける。
「日本の現代詩人た ちが、海 外の詩的論理にばかり眼がくらんで、自分の足も とにある日 本固有の古典の価値に ほとんど盲 目同然であったところに、今日の現代詩のひ弱さがあることを、か つて私は、どこかに書いたけれどこれは詩にかぎったことではなく、日本の文 化全体についてもいえると思う。」こういう文章を村野は残しているが、まったく同感する。文化のみならず、行政も企業もジャー ナリズムも、同様の病にかかっている。
芭蕉は、旅で神社仏閣に行きあうたびに、句を詠んでいるが、神や仏に帰依した作品はまったくない、無神論者だったろう。ただ美への執念だけが芭蕉の旅ごころの原動力だった。己の美意識だけを頼りに奥の細道をた どり、実存を生きた。村野も長い西欧遍歴を経て、また日本に回帰す るのである。

村野は「わたしは、今でもまた、たえず飢えた美食の単独者であることを、無上の栄誉と考えているものです」と「芸術」 のあとがきで述 べている。この美とは詩のことである。

「白秋によって火をつけられ、井泉水によって磨かれ、朔太郎によて解放されて始まった旅は、幾多の芸術思潮を経巡り、芭蕉に再会し、自分もふたたび旅に出たのでした。」と長男の村野晃一(セイコー株式会社代表取締役副社長・1937年生まれ)が詩人・村野四郎を総括している。

村野は二足のわらじをしっかりはいていた。「私は、はじめから、文学というものは実業による経済的な防波堤の内側でなすべきものと決めていた」。村野四郎は、その思いを日々の精進の中で遂げていった。実に見事な戦略的な人生である。この人の生き方は、もっと研究する価値が ると思う。