日本地域社会研究所。ヴォイストレーニング。コンセプトバンク。

13時:荻窪;日本地域社会研究所(地研)を訪問。知研の八木会長、理事長の私、福島事務局長。

  • 地域・都市総合シンクタンク出版社で、40年以上にわたって多くの本を刊行。
  • 落合社長と面談。
  • 多摩大大学院OBでここから本を出版している人を二人発見。塚原正彦(ミュージアム)。大川新人(コミュニティビジネス)。
  • 知研は地研と組んで出版物を出していきたい。

14時半:荻窪駅近くの喫茶店。八木会長、福島事務局長と打ち合わせ。

15時:代々木;プレスヴォイストレーニング研究所。

  • 所長の福島さんから1時間ほど初回のトレーニングを受ける。-

18時-22時。
学芸大学:コンセプトバンク主催の非常勤講師養成講座の打ち合わせ。

  • 企画会議;デメケンの橘川さん、マーケッティングの林光さん、図書館サービスの仁上さん、久米さん、、。育成とプロデュース。講師道場。
  • サンケイ新聞夕刊フジ担当の佐々木さんが参加。
  • 食事をとりながら談論風発

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「名言との対話」3月2日。村野四郎。

  • 「私は、はじめから、文学というものは実業による経済的な防波堤の内側でなすべきものと決めていた。」
    • 「ブンブンブン ハチがとぶ おいけのまわりに のばらがさいたよ ぶんぶんぶん はちがとぶ」という童謡や、卒業式でよく歌われる「巣立ちの歌」などの作詞者。3月2日に逝去。
    • 村野四郎の実業人人生を年表風にたどってみる。1937年。長男誕生、35才。会計課長。1940年。理研電具株式会社へ転出し、常務取締役。会社は終戦と同時に活動を停止。ストライキが起こり、会社に軟禁される。そういう状況でも詩の活動は休まない。1946年には戦後我が国初の詩集「天の繭」を共著で刊行。1950年。友人と共同で、三鷹市理研電解工業株式会社を設立し専務取締役。48才。このあたりから、詩の分野で売れっ子になっていく。詩の選、詩論、俳句の鑑賞など活動の幅がひろがっていく。1966年三男が大学を卒業。家族に対する経済的防波堤は要らないということで、理研電解工業会長を辞任する。
    • 自分の詩を護るためには確固とした防波堤が要るという確信を持ち、仕事をもって、その上で誰からも邪魔されずに詩作を極めていこうという姿勢だった。
    • 「精神のために詩を、肉体のために実業を」という考え方にもとづく長い二足のわらじの人生を進む。このあたりの見通しと覚悟には感心させられる。文学者は文学にのめり込んで、生活破たんする者が多いのだが、長期的に戦略的に生活と詩作を両立させる姿には感銘を覚える。
    • 50代後半の1959年に刊行された村野四郎の「亡羊記」は、読売文学 賞を受賞する。実業で身を護りながらアフターファイブに文学に努力し、最後は詩人として歴史名を残す。村野四郎は、その思いを日々の精進の中で遂げていった。実に見事な人生である。この人の生き方は、もっと研究する価値があると思う。