北康利『若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)

今週の木曜日のギリークラブの「日比谷公園本多静六に近づくーー公園ウォーク、作家を囲む茶話会」というイベントに参加するので、事前に北康利さんの近著『若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)を読んだ。

本多静六は、自己啓発分野の巨人であり、私は折に触れて本多の著作を読んで刺激を受けてきたし、埼玉の記念館も訪問している。

自己啓発、人生計画、四分の一天引き貯金、毎日の執筆のノルマの話、寄付の精神、、、など今も読み返すことがあるが、断片的であった。この本は本多静六という偉人をまるごとつかんでおり、そこから得る若い人向けの教訓を引き出している。

年上の妻とのなれそめと結婚にいたるエピソードは面白かった。彼女は医学を修めた才媛で、日本初の女医とし有名は荻野吟子と同様に、日本初の女医の栄冠を手にした可能性があった女性であり、結果的に日本で4番目の女医となっている。婚家からの援助でドイツ留学を果たした本多は、金の威力の偉大さに深く感じ入り、財産を築くことに目が開かれていった。「金儲けは理屈ではなくて、実際である。計画ではなくて、努力である。予算でなくて、結果である。その秘伝はとなると、やっぱり根本的な心構えの問題となる」。

以前、湯布院を訪問した時、本多静六が訪れて、ドイツのバーデン・バーデンを参考にして滞在型温泉地を目指せといい、その指針に沿って、今日の湯布院ができたことを知った。また私の母校の九大教養部の近くにあった大濠公園も、本多のアドバイスでできた公園であることを知った。

本多は「人間は活動するところ、そこに必ず新しい希望が生まれてくる。希望こそは人生の生命であり、それを失わぬ間は人間もムダには老いない」と語り、いつまでも活動をやめずに邁進している。

私は本多静六の人生120年説と20年ごとに区切った人生計画を参考にしてきた。人生100年時代を迎えつつある現在、年齢に関わらず本多の計画を参考にしたらいいと思う。「120を目標に樹てた人生計画は、120迄生きなければ未完成というものではない。80でも90でも、いや60、70までしか生きないのでも、立派にこれを生かし、遺憾なく充実を期すことができる。いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない」という考え方には、30歳から人生計画を描いてきた私も深く同感する。

この本にあったかどうか、「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある」 という言葉は、若い人に伝えたい言葉だ。また、「 人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである」という名言にも感銘を受けてきた。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ。だから出発点は低いほどいいのである。自身の環境が恵まれていないことは、幸福に至る有利な条件である。こういう処世の知恵も本多静六から学んで欲しいものだ。

北康利さんのこの伝記には、人生の達人・本多静六の教訓が満ちている。現今の不穏な社会情勢、未来への展望がみえない状況にある若い人への強力なメッセージとなるだろう。方針を立て、自分を磨き、行けるところまで行こうとする本多静六の生き方は、人生100年時代を迎えようとする現代人にとって、各年代それぞれにヒントが満載である。

人生100年時代の生き方のモデルは近現代の日本にある。そのモデル探しと提示が、今後重要になるはずだ。「真・日本人」をつくるその列に私も加わっていこう。

 

 

「名言との対話」11月14日。ジャワハルラール・ネルー「歴史を読むのは楽しみだ。だが、それよりもっと心を引き、興味があるのは、歴史を作ることに参加することだ」

ジャワハルラール・ネルー( 1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、インドの初代首相インド国民会議議長。インド独立運動の指導者。

富裕なバラモン階級の家柄。イギリスの名門ハロー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を専攻した後、弁護士資格をとって、インドに帰った。

20歳年長のマハトマ・ガンジーと8歳年少のチャンドラ・ボースと手を携えて、インドのイギリスからの独立運動を指導するようになっていく。1947年のインド独立までの間にネルーは弾圧による獄中生活は通算10年に及んでいる。

初代首相となったネルーヒンドゥーを中心としたインドを、社会主義的で、政教分離を旨として、近代国家建設を主導していく。憲法制定、普通選挙を軸とした民主主義体制を発展させていく。そしてフランス領、ポルトガル領の植民地もすべてインドに吸収した。

内政では混合経済体制のもとで重工業を強力に推進。外交ではイギリス連邦の一員となった。「非同盟・中立」外交を掲げ、1955年にはバンドンでアジア・アフリカ会議の開催に第三世界の中心国の一つとして尽力した。1964年に死去。

独立運動中の長い獄中生活では、ネルーは『父が子に語る世界歴史』、『自伝』、『インドの発見』という3冊の著書を完成している。それらがネルーの代表作となっている。

ネルー首相は日本とは縁が深い。日本は日露戦争の勝利でアジア諸国を鼓舞したが、「近隣諸国を植民地支配下に置き、欧米諸国の帝国主義と同じ道を歩んだ」と批判しているが、極東裁判において、インドのパール判事は一人、日本無罪論を主張して、感銘を与えた。

1949年にはネルーは日本の子どもたちの要望に応えて、一頭のインド象を上野公園に寄贈した。娘と同じ「インディラ」と名付けられ、30年以上にわたって上野公園のシンボルとなった。

インドは1952年のサンフランシスコ平和条約には参加せず、後に日本とは単独講和を結んでいる。そして賠償の権利を放棄した。

1957年には岸首相のインド訪問にこたえる形で来日し、上野公園にも訪れて、ネルーは大歓迎を受けている。このとき、日本の近代化を評価しながらも、アジア諸国の抑圧を批判し、「技術の進歩に見合った精神性」の欠如を指摘している。

ネルーの日本に関する言葉を拾おう。

  • インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。
  • 彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。
  • インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう。

1957年のバンドン会議でも、日本をオブザーバーとしての参加認め、国際社会への復帰の足掛かりをつくってくれている。ネルー首相は日本では人気が高く、その名声は私も子供心に刻まれている。インドは、そしてネルーは戦後日本の恩人でもあるのだ。

ネルーは「歴史を読むのは楽しみだ。だが、それよりもっと心を引き、興味があるのは、歴史を作ることに参加することだ」と語った。ネルーは歴史を読み、歴史を書き、その上でインドの歴史を主人公としてつくったのである。

インドという存在、インドの成熟した視点は、過去も現在も、そして世界最大の民主主義国家であり未来の経済大国であるインドは日本にとって極めて重要な国である。日本人はこの国のことをもっと知らなくてならないとあらためて痛感した。