北鎌倉から鎌倉へーー神奈川近代美術館・鎌倉別館「美しい本--湯川書房の書物と版画」展。川喜多映画記念館を再訪。

神奈川近代美術館・鎌倉別館を訪問。「美しい本--湯川書房の書物と版画」展。

本の装幀や製本に意匠を凝らした限定本に生涯をかけた「湯浅成一」の仕事に感銘を受けた。書物というものは本来、内容だけでなく、外観、手触りなども含めた総合芸であったことを思った。知識は宝石だったのだ。この企画展は蒐集家の「岡田泰三」が寄付した所蔵品で構成されている。

加藤周一塚本邦雄辻邦生村上春樹永田耕衣大岡信白洲正子堀田善衛。こういう美意識の高い人たちが、湯川書房で見事な装幀の本を出している。

本口木版で「肖像画」シリーズを手がけている「柄澤薺」(1950年生)にも関心を持った。表現の分野は、最後は「人物」「肖像」行き着くのではないか。

ここで知った人物については別途書きたい。

鶴岡八幡宮

 

次に川喜多映画記念館を再訪。2010年6月に訪問したことがある。当時はちょうど4月にオープンしたばかりで、吉永小百合さんからのお花が飾ってあって華やかだった。あれから12年経っている。

ヨーロッパ映画の輸入と日本映画の海外への輸出を仕事にした夫妻を記念して建てられた記念館だ。
川喜多長政1903年生まれ)は、府中四中、北京大学を経て、東ドイツに留学。東洋と西洋の和合を目指し東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入を始める。この会社が東宝・東和になり社長、会長を歴任する。
妻の川喜多かしこ(1908年生まれ)は、「制服の処女」で大ヒットを飛ばし、以後「会議は踊る」「巴里祭」「天井桟敷の人々」などを日本に紹介する。日本映画を海外に紹介することにも尽力する。「羅生門ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとった。映画祭の審査員は26回に及んでいる。
この夫婦は、夫は勲二等、妻は勲三等と勲章をもらっている。
2010には48席の気持ちのいいミニシアターで夫妻を紹介する映画を観た。関係した映画祭は、カンヌ、ベルリン、クラコフ、ムスクワ、ベネチアサンパウロ、ハワイ、プサン、、、。交流のあった映画人は、チャプリン、ドヌーブ、黒沢明淀川長治尾上梅幸大島渚アラン・ドロン原節子、、、。
かしこは、「徹子の部屋」で、師から「ビジョンを持て」「女性は美しくなければならない」と言われた。自身を「映画を好きすぎる、マニアみたい」と映像で語っている。
私達の観た外国映画は、この夫妻の仕事のおかげだった。また日本映画が海外で日の目を見たのもこの夫妻のおかげだったことがわかった。
図録がなく、かわりに『川喜多かしこ映画ひとすじに』(人間の記録34)を購入。帰りの電車の中と帰宅後の風呂で読み終わった。高野悦子岩波ホールと「映画の仲間」』(岩波書店)と並ぶ貴重な本である。

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「名言との対話」1月29日。本多静六「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある。

本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日1866年8月11日- 昭和27年(1952年1月29日)は、日本林学者造園家株式投資家。日本の「公園の父」。

本多静六は研究生活の傍ら植林・造園・産業振興など多方面で活躍した。日本初の林学博士であり、明治神宮の天然更新の森の実施者であり、日本公園の父と呼ばれている。また独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築くが、定年を機に全財産を匿名で寄付している。

また、処世術の分野のスターでもあり。若い頃から断片的に読んだり、聞いたりしていた記憶がある。「給料の四分の一は最初から天引きして貯金せよ」などのアドバイスはよく知られている。高名な学者で人生に関する技術や方法を述べたのは、新渡戸稲造とこの本多くらいだろうが、当時は「修養」の時代でもあり多くの青年に影響を与えた。埼玉県久喜市の記念館には本多の業績と人生が展示されている。

本多は25歳から一日一頁(32字・14行で448字相当)の文章修行を始めた。42歳の時に腸チフスにかかって休んだ分を取り返すために一日三ページに目標を改め馬力をかけたのが新しい習いとなって、一年で千ページというのが新しい取り決めとなった。この習いは85歳までも続いたため、中小370冊の著書を持つようになったのである。

私は毎日ブログを書き続けているのだが、ペースは本多静六が続けたペースとほぼ同じということに気がついた。本多はこういうペースで走り続けたのかという実感がはじめて湧いた。

「幸福」に関する名著は古今東西あまたあるが、職業の道楽化とその本質を喝破したのは本多である。置かれた場所、今いるところ、目の前の現場、そこで第一人者になれということであろう。

本多のもうひとつの幸福論をあげてみよう。「人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ」。深く納得する至言である。

 収入の四分の一は貯蓄にまわせ。 人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か、下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ 人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある。 人間は老衰するから働けぬというよりも。働かぬから老衰することになる。

本多静六は25歳から一日一頁(32字・14行で448字相当)の文章修行を始めた。42歳の時に腸チフスにかかって休んだ分を取り返すために一日三ページに目標を改め馬力をかけたのが新しい習いとなって、一年で千ページというのが新しい取り決めとなった。この習いは85歳までも続いたため、中小370冊の著書を持つようになった。(わたしの財産告白」)

本多静六は処世術の分野のスターでもあり。若い頃から断片的に読んだり、聞いたりしている。「給料の四分の一は最初から天引きして貯金せよ」などのアドバイスはよく知られている。高名な学者で人生に関する技術や方法を述べたのは、新渡戸稲造とこの本多くらいだろうが、「修養」の時代でもあり多くの青年に影響を与えている。

この本多のべストセラーの復刻版が3冊、実業之日本社から出ている。『人生計画の立て方   豊かに生きるための設計図』『私の財産告白 財産と金銭の真実』『私の生活流儀      健康・家庭円満・利殖の秘訣』である。

『私の生活流儀』。「私の健康長寿法」では「健康長寿はどうして求めるか」「一生元気に働き続けるには」「人間は百二十まで生きられる」「新生命観と人生計画の立て方が説かれている。「私の暮らし方・考え方」では、「ムリノない法・ムダのない法」「大切な住まいの工夫」「家の内のこと・家の外のこと」「頭の使い方と足の使い方」「ぐっすり眠り忙しく働く法 金の話・人の話」などが書かれている。

  • 人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある。
  • 給料の四分の一は最初から天引きして貯金せよ。
  • 人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ。

2014年に埼玉県久喜市菖蒲にできた本多静六博士の記念館を訪問している。

最近、北康利さんの近著『若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)を読んだ。本多静六は、自己啓発分野の巨人であり、私は折に触れて本多の著作を読んで刺激を受けてきたし、埼玉の記念館も訪問している。

自己啓発、人生計画、四分の一天引き貯金、毎日の執筆のノルマの話、寄付の精神、、、など今も読み返すことがあるが、断片的であった。この本は本多静六という偉人をまるごとつかんでおり、そこから得る若い人向けの教訓を引き出している。

年上の妻とのなれそめと結婚にいたるエピソードは面白かった。彼女は医学を修めた才媛で、日本初の女医とし有名は荻野吟子と同様に、日本初の女医の栄冠を手にした可能性があった女性であり、結果的に日本で4番目の女医となっている。婚家からの援助でドイツ留学を果たした本多は、金の威力の偉大さに深く感じ入り、財産を築くことに目が開かれていった。「金儲けは理屈ではなくて、実際である。計画ではなくて、努力である。予算でなくて、結果である。その秘伝はとなると、やっぱり根本的な心構えの問題となる」。

以前、湯布院を訪問した時、本多静六が訪れて、ドイツのバーデン・バーデンを参考にして滞在型温泉地を目指せといい、その指針に沿って、今日の湯布院ができたことを知った。また私の母校の九大教養部の近くにあった大濠公園も、本多のアドバイスでできた公園であることを知った。

北康利さんのこの伝記には、人生の達人・本多静六の教訓が満ちている。現今の不穏な社会情勢、未来への展望がみえない状況にある若い人への強力なメッセージとなるだろう。方針を立て、自分を磨き、行けるところまで行こうとする本多静六の生き方は、人生100年時代を迎えようとする現代人にとって、各年代それぞれにヒントが満載である

朝井まかて「落陽」(祥伝社)を読了。明治天皇を祀る明治神宮1920年に鎮座祭を行った。神宮の森は、150年後の完成に向けてスタートしたのである。自然による遷移を繰り返し、2070年頃に完成を迎える、という壮大なプロジェクトだ。このプロジェクトの主役は、東京帝国大学農科大学の本多静六博士、本郷高徳講師、上原敬二技手の3人だ。30代半ばの本郷は明治19年生まれとあるから、私の母方の祖父と同じだ。祖父は東京師範学校を出て、内地や中国青島の中学校の校長を歴任した人だが、そう考えると親しみが湧く。そういえば私は「明治記念館」で結婚式をあげたのだった。

明治天皇を祀る明治神宮1920年に鎮座祭を行った。神宮の森は、150年後の完成に向けてスタートしたのである。自然による遷移を繰り返し、2070年頃に完成を迎える、という壮大なプロジェクトだった。神宮林は明治天皇への郷愁であり、感謝である。己の為すべきことを全うした人を神にお戻ししようという営為である。祈りの森である。

「いまだ未熟なる日本林学ではあるけれど、無理な所に立派な神宮を造り上げて進ぜましょう」「何としてでも、我々の手で天然に負けぬ人工林を造り出さねばならんのだ。でなければ今後林学は不要の学問として政府に排除されかねんぞ。日本の林学がまた、世界に後(おく)れを取る」。本多静六は、己の為すべきことを成し遂げた人であった。

「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある」 という言葉は、若い人に伝えたい言葉だ。また、「 人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである」という名言にも感銘を受けてきた。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ。だから出発点は低いほどいいのである。自身の環境が恵まれていないことは、幸福に至る有利な条件である。こういう処世の知恵も本多静六から学んで欲しいものだ。

本多は「人間は活動するところ、そこに必ず新しい希望が生まれてくる。希望こそは人生の生命であり、それを失わぬ間は人間もムダには老いない」と語り、いつまでも活動をやめずに邁進している。

私は本多静六の人生120年説と20年ごとに区切った人生計画を参考にしてきた。人生100年時代を迎えつつある現在、年齢に関わらず本多の計画を参考にしたらいいと思う。「120を目標に樹てた人生計画は、120迄生きなければ未完成というものではない。80でも90でも、いや60、70までしか生きないのでも、立派にこれを生かし、遺憾なく充実を期すことができる。いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない」という考え方には、30歳から人生計画を描いてきた私も深く同感する。