「日比谷公園で本多静六に近づくーー公園ウォーク、作家(北康利)を囲む茶話会」(ギリークラブの渡辺幸弘さん主催)

ギリークラブ(渡辺幸弘さん主宰)の「日比谷公園本多静六に近づくーー公園ウォーク、作家を囲む茶話会」に参加。作家とは最近本多静六 若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)を書いた北康利さんだ。


f:id:k-hisatune:20221117234815j:image

f:id:k-hisatune:20221117234818j:image

日比谷公園松本楼の脇に立つ「首賭けの銀杏」の前に、北康利さん、渡辺幸弘さんをはじめ10人ほどが集合。集英社同志社大学、食文化研究家、酒サムライ、大七酒造、弁理士都築電気など。松本楼の虫賀部長、日比谷パレスの一松支配人友名刺交換。

公園内を散策しながら、北さんの本多静六と彼がつくった日比谷公園についての解説を聞いた。

3度の災難を乗り切った銀杏の木。西郷札。土倉庄三郎(日本林業の指導者)。ドイツの医学・林学・兵学。恩を忘れない。実現力。松本楼孫文国葬会場。安田善次郎が寄付した浅沼稲次郎暗殺の日比谷公会堂と東大安田講堂。「歴史は繰り返す」。出口治明。「海を渡れ、川を遡れ」。SDGs・サスティナビリティ・ウェルビーングは本多静六にある。奥州鉄道の二重の防雪林と製材所。水と疫病と大仏・祭り。江戸の智恵。歴史に学んだ人。自ら働きかけ、投資し、責任をとる。偉い人。褒める人がいない。次世代の若者につなぐ。なぜ評伝か。成功者の共通点、真理を探す。生物の法則。多様化と変化し続ける。人間学。人間の本質。無性生殖(単細胞)から有性生殖への進化。死を選択したのは多様性を維持し変化に適応するため。生物は次世代のために死を選ぶ。利他性。本多は相続争いを避けるため生前贈与。美田を残さず。人間の面目は晩年にあり(郷里の先輩の渋沢栄一)。竹原ピストル大塚製薬守破離藤井聡太。玉飛車。稲盛和夫(フィロソフィー・アメーバ組織)と松下幸之助(理念・事業部制)。アンラーニング。オリジナリティ。感謝と恩を返す。イノベーションをやった人たち。革命は辺境から生まれる(レーニン)。自分を辺境に置け。佐治敬三のビール事業進出。幸福は人の形をしてやってくる。偉人は化学反応で出てくる。甲州財閥。人と人が出会いアウフヘーベンしていく。コロナでこういう機会を失ったのは大きな損失。国立国会図書館のデジタル化。本多静六没後70年。TPPで著作権は70年に。青空文庫本多静六記念館のデジタル化。今後は評伝は楽になる。恩送り。習慣。緑の大事さ。明治神宮の成り立ちをふり返れ。国民の浄財。本多は後ろ指を指されても実行。自己確立。仏教研究者。喜捨の精神(喜んで捨てる)。子孫のために金をまわせ。陰徳。石田達郎(ニッポン放送)。発酵文化。、、、、、。

評伝作家として日本の近現代の偉人の「評伝」を着実に積みあげている先達の北康利さんの志を感じる充実した時間だった。北さんは「人物」と「名言」の蒐集家であり、それが作品に昇華されているのである。

このような素晴らしい企画を考えていただいた、ギリークラブの渡辺さんに感謝したい。

 


f:id:k-hisatune:20221117234922j:image

f:id:k-hisatune:20221117234925j:image

f:id:k-hisatune:20221117234928j:image

f:id:k-hisatune:20221117234919j:image

松本楼孫文資料。


f:id:k-hisatune:20221117235055j:image

f:id:k-hisatune:20221117235101j:image

f:id:k-hisatune:20221117235105j:image

f:id:k-hisatune:20221117235058j:image

ーーーーーー

日比谷公園のイベントの前は、12時半から寺山君の上京を機会の中津北高の同級会。湯島のビストロ・グラッソにて。

f:id:k-hisatune:20221117235330j:image

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」11月17日。萬鉄五郎「画家は明日を憂えてはいけない。今日、今、最も忠実でなければならない」

萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1])は、大正昭和初期の洋画家。 享年41。

岩手県花巻市東和町出身。早稲田中学からサンフランシスコの美術学校で修業するが地震で帰国。1907年東京美術学校学校西洋画科で学ぶ。卒業制作は「裸体美人」。これは草の上に赤い腰巻をして裸婦が寝転んでいる絵である。日本の置けるフォーヴィスムの先駆的な作品とされている。1914年から16年にかけて故郷で制作に没頭する。「ぼくは眼を開けているときは即ち絵をかいている時だ」と友人への手紙に書いている。1917年、二科展に「もたれて立つ人」を出品。この作品は日本におけるキュービスムの最初の記念碑的な絵との評価を受けている。

萬鉄五郎は日本近代美術の先駆者の一人である前衛画家だ。萬の出た小学校が1984年に萬鉄五郎記念美術館になっている。私はここを訪れたことがある。生家の土蔵を復元した隣の「八丁土蔵」の2階で、萬鉄五郎の作品や生涯をハイビジョン映像で楽しめる。

黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。「自分が南画から消化し吸収すべき点があるとすれば、先ず第一に人間的なリズムと云う言葉によって代表せられる、プリンシプル、精神の世界を高調する思想及び人格拡充の主義、而して漢詩的構図は、新しき自分の詩によって置換えられても差支えないと思う」と「玉堂琴士の事及び余談」の中で述べている。

棟方志功は幾度となく萬の作品を前にしては高価で手に入れることができず、ようやく手にした萬の自画像の額裏に「萬鉄五郎先醒(せんせい)」と書いた紙を貼り、生涯大事にしたというエピソードがある。棟方は、「わたくしは萬氏の繪の事については、際限を持たない。それ程、わたくしは「萬鐵に首つたけ惚れて」ゐるのだ。仕方がない程、参つてゐるのだ」とも記している。(「『萬鐵』の繪心」『板響神』1952年刊)とその心酔ぶりを記している。大正期の画家萬鉄五郎に対して、日本の真実を油彩でなしとげた無類の人と手ばなしで認めていたのである。

萬鉄五郎は「画家は」というが、しかしどのような職業、どのような人にも「今日、今」という言葉は重要だ。