東京MXテレビの「寺島実郎の世界を知る力」の要旨。

15日の東京MXテレビの「寺島実郎の世界を知る力」。

以下、要旨。

  • 1945年の敗戦から77年経った。今から77年後は2100年。敗戦は1868年の明治維から77年後だった。その前の77年は江戸後期(1791年から)だ。(前近代、近代、現代、近未来と呼ぼうか)
  • 江戸後期は世界は近代の曙。英国の産業革命(1769年の蒸気)。米国の独立戦争(1776年)。仏国のフランス革命(1789年から)。国内ではラクスマン根室(1792年)、1804年のレザノフの長崎来航というロシアの圧力。鎖国によって中国からの独立の気運。本居宣長古事記伝』は1798年国学、古道(平田篤胤)、水戸学(会沢正志斎)、など。
  • 高校に「歴史総合」が新設された。グローバルヒストリー。地域と地球との連携。明治以降の近現代に着目。しかし、誰が教えるのか? どう教えるのか? 例えば「どうして戦争になったのか?」「なぜ、負けたのか?」。
  • 明治時代も複雑だ。「尊王攘夷」の尊王天皇親政、攘夷は外国排斥。下部の「復古」(尊王攘夷)という国体と、上部の西欧に学ぶ「近代化」(憲法、国会、内閣制。富国強兵。資本主義)の二重構造になっている。
  • 戦争に入る10年前から「尊王攘夷」が滲み出てくる。統帥権干犯問題などの迷走。戦前の教科書には、神の国天皇、アジアの解放などが並ぶ。暗い昭和へ。
  • 暗い昭和に対し、明るさを提供したのが「明治」を描いた司馬遼太郎という救いだった。1969年の「坂の上の雲」は2000万部、「竜馬がゆく」は2500万部。「明治という国家」。しかし、司馬遼太郎は、国家神道天皇制に触れてはいない。
  • 戦後期をどう評価するか? 米国の物量に負けた、戦後は経済で復興しよう。軍国主義から民主主義への転換。与えらえた民主主義、マッカーサー民主主義。旧体制へのノスタルジー。議会の空洞化。
  • 経済の民主化グローバル化新自由主義の流れ。一国主義、官の指導、政の指導へ。閣議決定など国家主導へ。3・11、コロナなどでも統合願望。戦前と戦後は断絶していない。
  • 未来の77年。2100年の未来図。危機はあるがみえていない。新次元の外圧。明治、敗戦に続く3度目の危機。全員参加型、グローバルサウス。岸田首相の「防衛増税」「賃上げ」「少子化」「投資」「リスキリング」などは、個別の対策だけでビジョンはない。「同盟外交」もアメリカだけみていればよかった時代とは阿違う。「理想とビジョン」が重要になってくる。非核、平和国家、アジア太平洋国家、、。「全体知」から議論すべきだ。
  • 例えば「国を守る」。
  • 1:守るに値する国か?。愛国の中核は反日統一教会との連携だった。2:日米同盟をどうしていくのか? 在日米軍の駐留経費は21Cだけで16兆円の負担。 3:自衛隊の人材の質は大丈夫か? シビリアンコントロール・ 4:近隣外交をやっているのか? 台湾も軍も一枚岩ではない。最先端の軍事機密が中国に抜けることある。台湾に軍事基地はないから、沖縄は戦争に巻き込まれる。敵地攻撃を持つということは、中国にもその権利はあるということになる。5:防衛増税の財源は赤字国債増税?。東北復興税2.1%の延長など、、。
  • 未来図をみつめて。
  • 1:2045年、米軍駐留はあるか。敗戦から100年プロテクトレイト(保護領)と呼ばれている。敗戦国のステイタスでよいのか。同盟だけで乗り切れる時代ではない。対米過剰依存。独立国家か? 米軍基地を段階的に縮小していく。
  • 2:人口半減。713人に国会議員がいる。SNS、ウェブ3.0の時代。代議制をどうするか。直接民主主義も可能。代議者というリーダーも必要。少なくとも3分の1の議員を削減せよ。少子化社会、4割が高齢者。高齢者と女性の参画の社会システムとしての制度設計を。
  • 3:日本人は何でメシを食うか。GDPは1910年3%、1940年5%、1945年3%、1994年18%、2021年4%。工業社会から脱皮し、イノベーションを起こす必要がある。豊かさから、レジリエンス(耐久力)へ。ファンダメンタルズを重視。職と農と水。医療と防災産業。
  • 4:SDGsはきれいごとか? 2015年国連決議。持続可能な成長。どう実体化するのか。不平等、地球環境、、。今日の選択が未来へつながる。デイビット・クリスチャン『未来とは何か』(ニュースピックス)。中程度の未来。

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「名言との対話」1月16日。谷 文晁「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」

谷 文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日1763年10月15日) - 天保11年12月14日1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の南画文人画)家。享年77。

第1章 絵画 | あの人の直筆

江戸下谷根岸に生まれた。10歳のころから狩野派の加藤文麗に絵を学ぶ。19歳のころ、南蘋派の渡辺玄対に師事した。1788年(天明8)田安徳川家に出仕。同年長崎に遊学して文人画を学んだ。

1792年(寛政4)には白河侯松平定信付となり、定信の江戸湾岸巡視に随従して《公余探勝図》を制作した。西洋画学習の成果がみられる。また96年には定信の命を受け《集古十種》編纂のため、畿内の古社寺に所蔵されている古書画類の調査と模写を行った。

精力的に旅をし、多くの文人墨客と交わって知己を得る。田能村竹田が文晁の門をたたき、酒井抱一、菅茶山、大田南畝蜀山人)といった人たちとの交流があった。

寛政期(1789-1801)には特に南宗、北宗(南宗画北宗画)の両画風を合わせた静謐な作風が目をひき、一般に「寛政文晁」と呼ばれて、画業の中の一時代を画している。

山水画を中心に花鳥画肖像画も手がけや。また《歴代名公画譜》《本朝画纂》《画学叢書》《日本名山図会》《写山楼画本》《文晁画譜》等の著作もある。

文晁の門からは田能村竹田のほか、渡辺崋山、などのすぐれた画家も輩出している。

近代に入る直近では寛政文晁」といわれるほど多く作品を描いている。その特色は、遠近法の採用し、描線は銅版画に倣い、明暗法を多用するなど、西洋画の手法を駆使していることだ。絵画の近代化の端緒を開いた画家である。

渡辺崋山(1793-1841)に影響を与えている。2005年に愛知県田原市渡辺崋山記念館を訪ねた。画家としての崋山は、線を主体とした東洋画に、立体・質感・遠近などの西洋画の手法を取り入れている。これも師であった谷文晁の影響であろう。「一掃百態図」などは庶民の生活を描いた動きのある名画である。「両国橋図稿」など動きのある風俗描写も素晴らしい。また、人物画にも優れ多く描いている。写生の中に、人物の性格も表現した。崋山と椿山(弟子)の人物画の企画展も開催されていた。鷹見泉石、佐藤一斎、林大学頭述斎、崋山像(椿山画)、ナポレオンなど多くの優れた人物画をみることができた。

2005年に大分県の旧・竹田荘を訪問した。江戸時代後期の画家(1777年―1835)。豊後岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。竹田資料館から少しのぼったところにある田能村竹田の過ごした家が旧・竹田壮だ。

2016年には大分県美術館の「片岡辰市」コレクション展でみた田能村竹田の「稲川舟遊図」の添え書きの中に「吾より古を作す」とあり、竹田の気概に感銘を受けたこともある。この画家も谷文晁の門下である。田能村竹田の過ごした旧・竹田壮の近くにある竹田資料館で「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌)という言葉を発見した。田能村竹田の絵ができあがるには、対象を見ては直し見ては直しするなど研究に研究を重ねる苦心が込められており、それが完璧な描写になってあらわれるのである。田能村竹田は精神修行者であり、それが優れた絵や詩や書に結実したのだろう。

同時代の友人となった江戸琳派の祖・酒井抱一は、狩野風を学び、沈南蘋の写生画風、浮世絵、加えて土佐派、円山派の技法を習得。親交のあった谷文晁からも影響を受けている。そして弟子の渡辺崋山、田能村竹田らとともに、日本の近代絵画のさきがけとして、77歳まで長く活躍した画家である。「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」、これは「辞世の句」である。

 

参考:世界大百科事典。