参加型社会学会の発足記念イベント「蜃気楼大学」の下見の3回目。

大学セミナーハウス見学会。2月18日の参加型社会学会の発足記念イベント「蜃気楼大学」の下見。

私にとっては3回目。広島、京都、三島、伊東、大阪、東京からつわものが参集。富士箱根伊豆国際学会。スポーツメディカル療法士。事業家。スポーツトレーナー。デザイナー。

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帰りに、南大沢で力丸さんと打ち合わせ。「チームルーム」の談話室。野田語録の編集のやり方。

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川柳本

・「戒語川柳2」のイラスト取得。

・「戒語川柳3」の句のピックアップ作業。

明日の「幸福塾」の準備。「ライフワーカー」の事例6人。

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「名言との対話」1月17日。千葉周作「其れ剣は、瞬速、心、気、力の一致」

千葉 周作(ちば しゅうさく)は、江戸時代後期の武士、剣術家。北辰一刀流の流祖。

現在の宮城県大崎市で幼少を過ごす。7、8歳のころから父について家伝の北辰流を習い、その偉才ぶりを発揮した。15歳のとき一家は江戸を目ざして出郷、水戸道中松戸宿(千葉県松戸市)に落ち着き、父は馬医に、周作兄弟は同地出身の中西派一刀流の浅利又七郎義信 のもとに入門した。やがて非凡の才を認められて、江戸の宗家 中西忠兵衛子正に学び、寺田宗有 、白井亨 、高柳又四郎らの指導を受けて、修行3年で免許皆伝を許された。

1820年(文政3)27歳のとき、北関東から東海地方への廻国 修行を試み、各流各派の長短得失を知り、伝統的な一刀流兵法を改組する必要性を痛感し、1822年北辰・一刀両流をあわせ、さらに創意を加えて北辰一刀流を標榜 し、日本橋品川町に道場を開き、玄武館と称した。

千葉周作は北辰夢想流と小野は一刀流中西派を合法し、創意を加えて北辰一刀流として体系化した。単なる打ち合いではなく、掛かり稽古を中心とした稽古法と多段階の免許を3段階に簡素化した。この合理的な指導法は、現代の剣道にも大きな影響を与えている。明治時代に嘉納治五郎が、柔術各派を体系化し、柔道を創始したエピソードを思わせる。

少年時代にラジオで聞いて心を躍らせた赤胴鈴之助は千葉道場に通っているという想定だった。「剣をとっては日本一に、夢は大きな少年剣士、、」だ。父の形見の赤胴をつけた鈴之助の得意は真空斬りだった。

柔軟性に富んだ教授法と昇段制の簡略化など、優れた道場経営でたちまち人気を博し、門人が急増。1825年の秋には、神田お玉が池の移転した。一族子弟門人中にも優れた剣客に恵まれて、玄武館は江戸町道場の随一とうたわれた。江戸三大道場は「技の千葉(北辰一刀流千葉周作)、力の斎藤(神道無念流斎藤弥九郎)。位の桃井(鏡心明智流。桃井春蔵)」と評された。桃井道場の塾頭が武市半平太、斎藤道場の塾頭が桂小五郎、千葉道場の塾頭が坂本龍馬であった。

「其れ剣は、瞬速、心、気、力の一致」が千葉周作の剣道の極意である。その千葉道場は、輩出した人材の豊富さでも群を抜いている。剣客の森要蔵は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』『上総の剣客』で紹介されている。新選組山南敬助伊東甲子太郎。日本初の独和辞典を刊行した日比谷健次郎。庄内藩出身で浪士組を組織し「回天」を目指した清河八郎坂本龍馬も門人である。司馬遼太郎竜馬がゆく』の中で、坂本龍馬と斎藤道場の桂小五郎の勝負の名場面がある。西郷隆盛勝海舟の談判で江戸城無血開城となったが、そのおぜん立てをした山岡鉄舟。、、、

こうした人物たちに影響を与えた千葉道場は剣の腕を磨くだけではなかったのではないだろうか。政治的な立場が、勤王にせよ、佐幕にせよ、激動の幕末に活躍した人物を多数輩出した千葉周作の道場の影響は大きなものがある。

 

参考:日本大百科全書