週末の「蜃気楼大学」の準備ーー来場者100名、リモート参加100名以上となってきた模様。

週末の「蜃気楼大学」の準備。

来場者100名以上、リモート参加100名以上ッとなってきた模様。

「名言との対話」2月16日。青木周蔵「報在り、今朝子爵青木周蔵薨す。享年七十一。肺炎に依る」

青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日天保15年1月15日) - 1914年大正3年)2月16日)は、明治大正期の日本外交官政治家

2006年に黒磯の青木周蔵(1844年ー1914年)別邸を訪ねた。青木周蔵は明治時代にドイツ公使、3度の外務大臣、駐米全権公使などを歴任し、子爵の爵位を得て華族に列せられている人物である。青木別邸は白壁に紫色の屋根が載った瀟洒なドイツ建築で、雪景色の中だったが姿はまことに美しい。道の駅「明治の森」に隣接しており、「とちぎ明治の森記念館 旧青木家那須別邸」が正式名称である。この別邸は、1888年に建築され、1909年には大規模な増築工事を行って、昭和40年代までは青木家の別荘として使用されていたが、老朽化し荒れていた。栃木県は平成10年に青木周蔵の生きていた明治42年(1909年)とおおむね同じ状態に復元した。平成11年12月には国の重要文化財にも指定された。227坪の大邸宅である。建築は松ケ崎萬長男爵(1858−1921)で、現存する唯一の作品である。松ヶ崎は七十七銀行本店も建築している。

青木周蔵は長州の生まれだが、16歳の時に日田の感宜園(広瀬淡窓)で学ぶために中津に着いたところ、中津城の大きさに驚いて方針を変更し城下の手島仁太郎家塾(誠求堂・荻生徂徠学)に入門する。翌年には塾長代理になる秀才だった。福沢諭吉(1835年生まれ)の生家も訪問している。9歳違いになるから、福沢は20代半ばで咸臨丸での渡米や遣欧使節として活動している時期である。周蔵は諭吉の生き方に刺激を受け、蘭学を学ぶ決意をする。

21歳で蘭学者青木研蔵の養子となり、青木テルと結婚。24歳で医学修行のためプロシア(ドイツ)に留学。3年分の旅費・学費として1575両が与えられている。30歳でドイツより帰国し、ドイツ公使としてドイツへ。33歳、ドイツ人エリザベートと国際結婚。養子という身分の青木周蔵は、青木テルとは離婚するが、青木家とは離縁しないという決着を青木家とみている。青年時代からあわせて19年間ドイツに滞在する。「ドイツ翁」とも呼ばれていた。43歳、子爵。45歳山県内閣の外務大臣、47歳、松方内閣の外務大臣、54歳、山県内閣の外務大臣

青木が尊敬していたのは、木戸孝允、次に親しかったのは井上馨、次に親交があったのは山県有朋。評価していないのは、伊藤博文陸奥宗光だった。

殖産興業政策が推進された明治10年代は大々的な開拓事業が展開されたが、広大な原野であった那須野ケ原の開拓もその一つでああった。水が乏しく、広大な原野で、山林経営を主体としたドイツ式農場を目指した。青木の頭の中にはドイツの貴族地主(ユンカー)があった。1885年の那須疎水の開削によって開拓は加速される。

那須野ケ原には、明治の重臣の別邸が多い。山県有朋別邸、乃木希輔別邸、松方正義別邸、大山巌別邸、三島弥太郎別邸、毛利元敏別邸など。このうち、松方別邸はビジネスマン時代に幹部社員だった縁戚関係者と訪問して驚いた記憶がある。山県と乃木の別邸は昨年訪問している。

青木農場は500万坪(1576ヘクタール)の大農場で、近所の市立の青木小学校もつくっているなど、地元にも大いに貢献している。

青木別邸は1階は、夫人室、応接室、主人室、大食堂、納戸、正面玄関、居室、小食堂、倉庫、調理室、倉庫。2階は、2つの寝室、居室、倉庫、居室、居室、屋根裏部屋など。

系図の中に、周蔵の曾孫の世代に盛久(元ペルー大使)という名前があった。確か、ペルーの日本大使館の人質事件の時(フジモリ大統領)の大使だった。不遜な語り口で話題になった人物だったという記憶がある。

周蔵は森鴎外とも親交があり、「舞姫」や「大発見」という小説の中でモデルともなっているそうだ。

青木周蔵の言葉は見当たらなかったので、『』有名人の死亡診断 近代編』(服部敏良)の記述の坪井日記から、亡くなったとき記述を採った。