横松宗先生『大正から昭和へ  恐慌と戦争の中を生きて』ーー福沢諭吉について

私の恩師の一人である横松宗先生の『大正から昭和へ 恐慌と戦争の中を生きて』(河出書房新社)は、座右の書の一つだ。横松先生は中津出身で、広島高等師範をでて、八幡大学学長をつとめた中国研究者で、ながく故郷の中津で文化分野の指導者であった。

この本の中で、福沢諭吉についての記述がある。現在の私の心境と同じである。改めて、福沢諭吉の著作を読むことにしたい。

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西川先生(広島高等師範学校教授)はまず、次々に私たちの名前と出身地を聞いた。「ぼく愛知県です」「それでは豊臣秀吉たな…」「ぼくは福井県です」「そうか、ああ、、、橋本左内か」「高知県高知市です」「だったら、坂本竜馬か、ほかにもいろいろえらい人がでてるなぁ…」

最後に私の番が廻ってきた。「僕は大分県です。、、、そう中津市です」「ほう君は、、、中津かね。それなら福沢諭吉だ。、、、福沢諭吉は、今までの諸君の出身地の偉人を全部併せたよりもスケールの大きな人だ。立派な先輩持ってるよ、君は、、、」

私はびっくりした。郷里の生んだだ最大の偉人というので、私は小学生のころから福沢諭吉のことをくりかえし聞かされされていた。『福沢諭吉読本』という略伝のようなものを読まされた。しかしそれらは福沢諭吉をもって、学問に励み、いちはやく、西洋文明を紹介し、日本に近代文明を普及するとに多大な貢献をしたという程度のものであった。福沢先生の旧宅にしばしば足を運んだ私たちにとっては、先生が米をたきながら本を読んだという土蔵と、その二階の先生の人形のような像が頭に浮かぶという程度であった。そういった私にとって、西川先生のこの言葉は、青天の霹靂ともいうべきものであった。

私は早速岩波文庫にある。『文明論之概略』『学問のすすめ』および『福翁自伝』などを買い、下宿の部屋に寝ころんではむさぼるように読みふけった。『文明論之概略』には非常に感銘を覚えたのである。そして、中津で福沢先生について知ったふうなことを論じている郷土史家や名士たちは、実は先生の著書はあまり読んでいないのではないか、あるいは少しは読んでいても、自分たちに都合のよいところだけを語っているのはないかと、私は当時思ったのである。

当時の修身教育や歴史教育の教えとは、全く反対の、たとえば、楠木正成権助論、足利尊氏尊重論、忠孝区別論、さらに、教育勅語御真影の奉載を無視した慶應義塾の道徳教育(「修身要領」など)、また、儒教神道に対する痛烈な批判に驚異の目をみはったものである。

そのさらに、その後、『旧藩情』『民情一新』『女大学論』などスを読みすすむにつれ、その底に流れる封建門閥制度への諭吉の怨念に心打たれるようになった。また、諭吉の多くの書物が、当時ベストセラーとして普及したにもかかわらず、明治の初めにすでに教科書として禁止された事実があったことを知らされた。

 

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「名言との対話」。2月15日「河合栄治郎「職業にあるものは多かれ少なかれ、分業の害悪をなめねばならない。彼は一生を通じて細かに切り刻まれた仕事に没頭して、一部分としてしか成長し得ない危険に瀕する」

河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。

河合は帝大卒業後、農商務省に入る。第1回ILO会議に対する日本政府案を起草したが、上司と対立し退官する。これに際して朝日新聞に「官を辞するに際して」と題して公開状を発表する。その結びは「官吏生活と云うものは決して若い青年の踏むべき路では無いと云う事である」であった。

東大では社会政策を担当。「帝大新聞」に「二・二六事件の批判」を発表する。反マルキシズムと同時に反ファシズムの立場で著書を刊行。右翼勢力の圧迫を受けて、東大教授休職を命ぜられ起訴され最終的に有罪となる。

河合は官吏生活の経験から、門下生には官途につくことを決して勧めなかった。門下生は多士済々である。学界では、大河内一男(東大総長)、猪木正道(京大教授)、経済界では木川田一隆(東京電力社長)、宇佐美洵日銀総裁)、佐々木直日銀総裁)、菊池庄次郎(日本郵船社長)らがいる。木川田一隆は講義を最前列で聴き、河合の唱える理想主義自由主義に傾倒し、社会に出てからは「電力の鬼」松永安左ヱ門に師事し、右腕として9電力体制を実現した。一方、美濃部亮吉は、東京帝大で大内兵衛に師事し助手になるが。河合栄治郎に嫌われ法政大に転出。こうやって眺めると確かに官界ではなく、学界、経済界に人材を輩出していることがわかる。

1940年(昭和15年)に『学生に与う』を箱根の旅館で執筆するなど、学生叢書の刊行を継続しながら学生・青年に理想主義を説き続けた。河合は近代を代表する理想主義者、人格主義者、教養主義者にして自由主義者であった。

河合は戦後忘れられたが、その河合は分業による職業生活の危険性を語っている。分業とは専門化のことである。全体的視野の喪失を指摘している。現代社会での分業化は避けられないが、専門を持った上で、全体観を常に意識することが重要であろう。