「名言との対話」(近代編):1月が終了。2月の人選中。

 

2023年1月が終わる。毎日書いている「名言との対話」は8年目に入った。2016年は「命日」編。2017年は「誕生日」編。2018年は「平成時代」編。2019年は「平成時代2」編。2020年は「戦後編」。2021年は「大正から昭和へ」編。2022年は「明治編」。通算では本日で2587日目となる。

今年は、近代に活躍した日本人を取り上げることにしている。各日ごとに、その日が命日の人だ。「近代編」である。近代とは、江戸時代の文化文政時代、幕末、明治、大正、昭和の敗戦までと考えている。なるべく、近代前半の人物に取り上げたい。

さて、この一カ月、誰を取り上げたか。銭屋五兵衛。宇田川玄真。千家尊福。福地源一郎。横井小楠セオドア・ルーズベルト宇野精一梅津美治郎竹内綱大隈重信生田長江調所広郷。橋本雅邦。広岡浅子野村徳七。谷文晁千葉周作。新渡戸十次郎。勝海舟。横山又次郎。杉田久女。河竹黙阿弥新島襄。平賀源内。牧野伸顕重光葵。野口雨情。緒方竹虎本多静六石井十次

昨年の「明治生まれ」とは、随分と違った感じの人も多い。江戸時代生まれの人たちだからだ。この調子なら、なんとか続けられそうな気がしている。

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2月の人選中。

山県有朋福沢諭吉秋山真之岩崎弥太郎樺山資紀松浦武四郎高橋泥舟横井小楠青木周蔵大槻文彦。伊東巳代治。村山槐多。田中久重直木三十五。後藤武夫。金子直吉坪内逍遥。、、、、

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「名言との対話」1月31日。副島種臣「東洋の学者は人の禽獣に異なる所以を説き、西洋の学者は人の禽獣に同じき所以を説く」

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日1828年10月17日〉- 明治38年〈1905年1月31日)は、日本政治家

佐賀県出身。尊王攘夷運動に奔走する。維新後に政府に入り、参与、参議を経て、44歳で外務卿(大臣)になる。日清修好条約を結び、時の同治帝に単独謁見。床にひざまずく拝きの礼を拒み、立礼を要求。結局立ったまま三度の礼をする「三しゅうの礼」によって謁見するなど、対等な近代国家同士の外交関係であることを示す立礼の実現は外国からも大きな賞賛を得ている。樺太国境問題でロシアと協議、日中両属であった琉球帰属問題の解決、マリア・ルース号の中国人奴隷229名の解放に関与するなどして、「正義人道の人」として名高い。

明治6年には征韓論の主張を行い下野。翌年に板垣退助らと民選議院設立建白書を提出する。その後、3年間の中国大陸を漫遊し、李鴻章と交友する。

帰国後、明治天皇の侍講、枢密顧問官、そして松方内閣の内務大臣をつとめるなど、明治天皇の信任が厚かった。伯爵。

副島は佐賀の出身である。明治維新の主役は「薩長土肥」と肥前佐賀が入っているのは不思議だったが、その謎が解けた。2006年に佐賀の佐野常民記念館を訪ねた時、館長の福岡博先生は、「佐賀県人の歩いた後は草も生えない」とよく言われるが、佐賀県人は科学的で合理的であり、徹底的に勉強しつくしてしまうので、後には研究するテーマが残らない、それほど佐賀県人は優れている、という意味だそうで、同行した佐賀県商工連合会の人たちもびっくりしていた。

佐賀藩のつくった大砲を長崎藩に貸して、ロシアのプチャーチンが来た時に、1500mの距離で15発中12発が命中して敵は驚いて帰っていった。また佐賀藩のアームストロング砲2門で上野の彰義隊を壊滅させてその威力に明治政府が感謝している。また種痘は佐賀藩(36万石。全国8位の石高)が日本で一番早く実施している。

大蔵卿が大隈重信、司法卿が江藤新平、文部卿が大木喬任、外務卿が副島種臣など、明治政府の閣僚9人のうち4人までが佐賀県人だったこともある。また日本が47県になったとき、豊前・豊後が大分県筑前筑後が福岡県など2つが1県になったが、長崎県を二つに分割してその一つが肥前佐賀県になったなど、佐賀県は優遇されているのだ。

2006年に佐賀の県立博物館で副島種臣の没後百年記念の「蒼海 副島種臣−−全心の書」展を観る機会があった。副島は、佐賀藩出身の俊才だが、書の方が後世に大きな影響を与えているといえるかもしれない。和・漢・洋に及ぶ広い学識を持ち、明治天皇の侍講もつとめる。優れた漢詩人、能書家であった。

以下は私の副島の書の印象。奔放、遊びが多い、絵画的・漫画的、傾きも自由、象形文字風、楽しい文字、変化する書風、、、。この人の書は当時から人気が高かったというが、真面目だけというのではなく、遊びや工夫が随所にあり、従来の書の殻を破った奔放さや楽しい書風が受けたのだろうと納得した。

現代の「書」の批評家として特異な才能を縦横に発揮している石川九楊京都精華大学教授・文字文明研究所長)が日経新聞紙上でこの副島の書について語っている。「ミロやクレーの抽象画を思わせる」「マンガ的」「絵画は色と形の表現だろうが、書は「筆触」(深度、速度、角度から読み取れる)と「構成」(点画を文字に仕立てる構想)との統合表現である」「書きづらい「左旋回」の筆触」「一つの字画が他字の中ま侵入する文字や、斜めに倒れた文字、左右反転の鏡文字、、」「内藤湖南「高古けい秀、名状すべからず」「河東碧梧堂「書聖」」「有島生馬「その右に出るものは空海」「高村光太郎「抜群」」、、。「全心」の書は、技巧など考えず心を全て筆に集中して書くべくだという副島の考えを示している。若い頃は速く勢いのある書を書いたが、後には「全心」を語ったという。副島種臣の奔放な、絵画のようなデザイン性の強い書に驚いた。精神が自由なのだと感嘆した。

また漢詩人としては、後に編纂された『蒼海全集』には2000を超える漢詩が含まれている。

同時代の人は副島をどうみていたか。板垣退助「副島こそ太政大臣たるべき人である」。西郷隆盛「副島に期待する」と死の際に語っている。また司馬遼太郎は『翔ぶが如く』で「姪j政府は優れた経綸家を二人しか所有していなかった。一人は西郷、一人は副島、、」と述べている。寛大な処置を行った西郷隆盛に感謝し、藩士を薩摩へ留学させた庄内藩が『南洲翁遺訓』を発刊した時、その序文は西郷と親交のあった副島が書いている。

この偉大な知性は「東洋の学者は人の禽獣に異なる所以を説き、西洋の学者は人の禽獣に同じき所以を説く」と述べている。禽獣と異なるから、禽獣と同じだから、人としての道を歩めという結論になるのだろう。そう理解しておこう。